下村為山しもむらいざん
時代 | 昭和 |
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カテゴリー | 絵画、書画 |
作品種別 | 日本画 |
プロフィール | 洋画家。俳画家。松山城下(現、松山市)出身。本名は純孝。18歳の時に上京し、初め本多錦吉郎(ほんだきんきちろう)の洋画塾「彰技堂(しょうぎどう)」に入塾、23歳のときに小山正太郎の画塾「不同舎」に移り洋画を学ぶ。明治23(1890)年4月の第3回内国勧業博覧会に出品した油絵「慈悲者之殺生(じひしゃのせっしょう)」が褒章を受け、新鋭洋画家として注目され、明治前期洋画壇の青年画家として活躍する。 この頃、従兄弟(いとこ)の内藤鳴雪に同郷の正岡子規を紹介され、俳句に熱中するようになる一方、子規と邦画洋画優劣論を試み、その写生論は、子規の俳句革新に影響を及ぼした。また自身は、俳句の写生を日本画において試み、近代日本画に新境地を開くとともに、俳画の研究に没頭してその大家となった。俳人としても知られ、俳号を「牛伴(ぎゅうはん)」という。 |