梶原緋佐子かじわらひさこ

時代 昭和
カテゴリー 絵画、書画
作品種別 日本画
プロフィール 日本画家。京都生。名は久。菊池契月に師事し、木谷千種・和気春光とともに契月塾の三閨秀と称される。官展を中心に活躍。宇田荻邨の白申社結成に参加した。初期には哀感こもる女性像を描き、のち舞妓などをモティーフに独自の美人画を追求した。日展特選・日展白寿賞受賞。京都市文化功労者。昭和63年(1988)歿、91才。

大正初期、京都・知恩院古門前町に生まれる。造り酒屋の次女として育ち、京都府立第二高等女学校(現・京都府立朱雀高校)在学中に、図画教師で進歩的日本画家・千種掃雲の目にとまる。掃雲の「血の通った女を描け」との言葉に導かれ、1914年、菊池契月に師事。以後、画業への道を歩み出す。

1918年、国画創作協会展に《暮れゆく停留所》を出品。選外佳作ながら、その哀愁漂う仲居の姿は、生活者の視点を重んじる緋佐子の画風の原点を示していた。1920年には帝展に初入選。以後も、都市の片隅で懸命に生きる女性たちを描き続け、社会的な視座と温かなまなざしを併せ持つ作品で注目を集める。

その眼差しの背景には、祇園に近い生家での人間観察や、恋文の代筆をするような人々との交流があった。緋佐子は「生きた女の生活を描きたい」と語り、絵筆を通して、時代を生きる女性の姿を鮮やかに刻んでいった。

昭和に入り、人生の波により一時筆を止めるが、和歌の制作に傾倒。吉井勇に師事し、歌集『逢坂越え』を刊行。1930年、再び帝展に復帰。画壇が大正ロマンから新古典主義へと転じる中、師・契月とともに流麗な線と明快な色調を特徴とする画風へと移行。良家の令嬢や芸妓を描いた気品ある作品が評価された。

戦後は日展に出品し続け、1947年《晩涼》で特選、1952年《涼》で白寿賞を受賞。戦前の硬質な写実とは一線を画す、ふくよかで明るい表現へと深化していった。昭和30年代以降は京都の芸舞妓を数多く描き、上村松園亡き後の京都画壇において、美人画の伝統を受け継ぐ存在となった。

1956年、契月の死後に結成された白甲社に参加。1974年に日展参与、1976年に京都市文化功労者。1979年には画業60年を記念して、京都大丸と東京銀座松屋で回顧展を開催。1988年、91歳でその生涯を閉じた。

受賞歴
1947年 日展特選「晩涼」
1952年 白寿賞「涼」
1976年 京都市文化功労者
代表作
暮れゆく停留所
古着市
旅の楽屋
お水取りの夜
娘義太夫
矢場
晩涼