須田珙中すだきょうちゅう

時代 日本画
カテゴリー 絵画、書画,掛け軸
作品種別 日本画
プロフィール 日本画家。福島県生。東美校卒。名は善二。松岡映丘・前田青邨に師事。帝展・文展審査展・新文展・日展で活躍し、瑠爽画社に参加。のち日展を脱退して院展で活躍。日本美術員賞受賞。東京芸大助教授。日本美術院同人。昭和39年(1964)歿、56才。

日本美術院同人で、多くの名画を残している須田珙中画伯は、本名を善二と言い、明治40年1月、須賀川の通称三丁目にあった雑貨商の3男として生を受けました。当時の三丁目は、奥州街道・南口の商店街として栄えており、珙中は、近郷近在からの買い物客で繁盛するにぎやかな環境のなかで、幼少時代を過ごしていました。

そして大正11年、須賀川町立商業学校を卒業後、私立石川中学校の4年に編入しました。このころから、珙中は、画家の道への志を強くし、この石川中学校で2年間学んだ後、東京美術学校本科日本画科に入学しました。

そしてこの在学中に、頭角を表し始め、1年生時には、作品「ぶどう畑」が日本画会展で入選しています。2年生時にも、第2回聖徳太子奉讃展で入選しますが、「在学中、許可なく官展への出品を禁ず」の学則に触れ、1週間の停学処分を受けるといったエピソードを残しています。

在学中は、松岡映丘に師事し、昭和9年の卒業まで、帝展への連続入選を果たすなど、大いに活躍し、まさに日本画界の将来を担う若きホープとして期待されました。

卒業後は、前田青邨の薫陶を受け、昭和26年からは、母校である東京芸術大学美術学部に教官として迎えられました。この学生たちへの指導により、珙中自身もまた学び、作風の変化した、多くの優れた作品を残しています。
具体的には、日本美術院展に出品するようになった昭和27年を機に、それまでの古典的な作風が、変わり始めたと言われています。

珙中は、昭和39年7月、心筋梗塞のため、57歳の若さで急逝。