小林古径こばやしこけい
時代 | 昭和時代 |
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カテゴリー | 絵画、書画,掛け軸 |
作品種別 | 日本画 |
プロフィール | 小林 古径(旧字:古徑、こばやし こけい、1883年(明治16年)2月11日 - 1957年(昭和32年)4月3日)は、大正~昭和期の日本画家。 本名は茂(しげる)。 1883年(明治16年)、新潟県高田(現上越市)に生まれる。早期に家族を亡くし[* 1]、16歳の1899年(明治32年)に上京して梶田半古に日本画を学ぶ。39歳の1922年(大正11年)より前田青邨と共に渡欧留学。翌1923年(大正12年)、大英博物館で中国・東晋の名画「女史箴図巻」(じょししんずかん)を模写している。「蚕の吐く糸のような」と評される線描が特色のこの中国古典を研究することによって、古径は東洋絵画の命である線描の技術を高めた。代表作「髪」は、このような古径の線描の特色をいかんなく発揮した名作である。簡潔に力強く描かれた線と単純な色彩で、髪の毛一本一本や美しく縁取られた顔の輪郭、半裸の女性の体温や皮膚の柔らかい感触まで、繊細に描き出している。「髪」は、裸体画として、日本で初めて切手のデザインとなった。1935年(昭和10年)、帝国美術院会員。1944年(昭和19年)、東京美術学校教授に就任。同年7月1日帝室技芸員となる[2]。1950年(昭和25年)、文化勲章受章。1957年(昭和32年)4月3日、死去、従三位勲二等旭日章を受賞[1]。 古径の住居として東京都大田区南馬込に建築された小林古径邸は新潟県上越市の高田公園内に移築・復原され、国の登録有形文化財に登録されている。古径は、「私が好きになるような家を建ててください。」と言っただけで一切注文を出さなかった、古径邸ができあがってもすぐには移り住まずに通ってきては眺めて楽しんだというエピソードが残っている。 また、古径は絵画における写生の重要性を認識しており、庭の植物や庭で飼育した鳥などを写生したという。 小林古径(こばやし こけい、1883年4月11日 – 1957年4月3日)は、大正から昭和にかけて活躍した日本画家で、静謐で格調高い作品を多く残した近代日本画壇の巨匠です。特に古典美の再評価と近代的な感覚を融合させた画風で知られ、「大和絵」の伝統を現代に甦らせたと高く評価されています。 【基本情報】 本名:小林 茂(こばやし しげる) 生年月日:1883年4月11日 没年月日:1957年4月3日(享年73歳) 出身地:新潟県上越市高田(現在の新潟県上越市) 学歴:東京美術学校(現・東京藝術大学) 師匠:梶田半古 受賞歴:文化勲章(1950年) 【画風と芸術観】 1. 古典美の探求と再構築 日本古来の「大和絵」の伝統的な美意識を重んじながら、洗練された線描と品格ある色彩を取り入れました。 平安・鎌倉期の美術に強い関心を持ち、伝統的な技法と現代的な感覚を融合させた独自の美を確立しました。 2. 清らかさと静謐な世界観 華やかさよりも、静けさと格調の高さを追求。 特に女性像では、気品あるたたずまいと控えめな美しさが表現され、いわゆる「古径美人」と称される独特の美人画様式を確立。 3. 緻密な描写と構図の妙 線の美しさにこだわり、写実的な描写よりも、余白や構成の美しさで空間的な広がりと深みを持たせました。 仏教的な思想や精神性も作品に反映され、単なる風俗画ではない、内面的な豊かさを感じさせる作品が多いです。 【代表作】 《清姫》(1930年) → 能楽の「道成寺」に取材した作品で、抑えた色調と端正な構図が美しい代表作。 《女人》(1936年) → 静かにたたずむ女性像を描いた作品で、「古径美人」の代表例。 《竹取物語》(1947年) → 日本最古の物語を題材に、古典的な美と幻想性を融合した作品。 《柿》(1950年) → 自然描写においても、簡潔で洗練された美しさを表現。 【人物像とエピソード】 生涯を通して華美を避け、静かな美を追い求めた人格者としても知られます。 日本美術院の再興にも尽力し、横山大観や下村観山らとともに近代日本画壇を支えました。 教育者としても多くの後進を育て、東京美術学校(現・東京藝術大学)教授として活躍しました。 【栄典】 1950年:文化勲章受章 1955年:文化功労者 【評価と影響】 小林古径の作品は、現在も東京国立近代美術館や山種美術館などに所蔵されています。 東山魁夷、杉山寧といった戦後の日本画家にも影響を与え、「精神性の高い日本画」の模範とされています。 |