橋口五葉はしぐちごよう

時代 大正時代
カテゴリー 掛け軸,絵画、書画
作品種別 日本画
プロフィール 橋口 五葉(はしぐち ごよう、1881年(明治14年)[1]12月21日 - 1921年(大正10年)2月24日)は明治末から大正期にかけて文学書の装幀作家、浮世絵研究者として活躍したが、最晩年、新版画作家として新境地を開こうとした矢先に急死した。アール・ヌーヴォー調の装幀本、「現代の歌麿」と形容された美人画を残している。

橋口五葉(はしぐち ごよう、1881年12月21日 – 1921年2月24日)は、明治末から大正期にかけて活躍した日本の画家・版画家・装幀家であり、「大正の歌麿」と称される美人画の名手として知られています。


生涯と芸術活動
鹿児島県鹿児島市に生まれた橋口五葉(本名:清)は、薩摩藩の藩医を務めた士族の家系に育ちました。画号「五葉」は、実家の庭にあった樹齢300年の五葉松に由来しています。少年時代に狩野派の絵を学んだ後、1899年に上京し、橋本雅邦に師事。その後、黒田清輝の勧めで東京美術学校(現・東京藝術大学)西洋画科に入学し、1905年に首席で卒業しました。


在学中から挿絵や装幀の仕事に携わり、1905年には夏目漱石の『吾輩ハ猫デアル』の装幀を手がけたことを皮切りに、『草枕』『虞美人草』『三四郎』『それから』『門』『彼岸過迄』『行人』など、漱石の多くの作品の装幀を担当しました。また、森鷗外、永井荷風、谷崎潤一郎、泉鏡花などの文学作品の装幀も手がけ、アール・ヌーヴォー調のデザインで高く評価されました。


新版画と美人画
1915年、渡辺庄三郎の版元である渡辺版画店から木版画「浴場の女(ゆあみ)」を発表し、新版画運動に参加しました。その後、「髪梳ける女」「手鏡」「手拭いを持つ女」「夏装の女」「かがみの前」などの美人画を制作し、喜多川歌麿の影響を受けつつも、現代的な感覚と写実的な表現を取り入れた作品で「大正の歌麿」と称されました。

また、浮世絵の研究にも熱心で、鈴木春信や歌川広重の作品の復刻や研究を行い、浮世絵の美を現代に伝える活動にも尽力しました。

早すぎる死と遺産
橋口五葉は、1921年に中耳炎から脳膜炎を併発し、東京で急逝しました。享年39歳(数え年で41歳)でした。彼の死後、未完の版画数点が甥である橋口康雄によって完成され、発表されました。代表作の一つである「温泉宿」は、五葉の下絵をもとに康雄が戦後に完成させた作品です。

橋口五葉の作品は、現在も多くの美術館やコレクターによって所蔵されており、その美人画や装幀デザインは、日本美術の重要な遺産として高く評価されています。

代表作と著作
美人画・版画: 「髪梳ける女」「浴場の女」「化粧の女」「耶馬溪」など。
装幀作品: 夏目漱石の『吾輩ハ猫デアル』『草枕』、泉鏡花の『三味線堀』『銀鈴集』など。
著作: 『浮世風俗やまと錦繪』(1917年)、『歌麿筆浮世繪』(1919年)など。

橋口五葉の作品は、国内外の美術館で展示されることがあり、彼の美人画や装幀デザインに触れることができます。また、彼の作品集や研究書も出版されており、彼の芸術に興味を持つ方々にとって貴重な資料となっています。