原在泉はらざいせん
時代 | 大正時代 |
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カテゴリー | 絵画、書画 |
作品種別 | 日本画 |
プロフィール | 日本画家。京都生。原在照の養子。日本画家原在寛は次男。旧姓渡辺、字は子毘、別号を松濤。京美校教諭。明治天皇御大喪絵巻を制作する。大正5年(1916)歿、68才。 原在泉(はら ざいせん、1849年〈嘉永2年〉–1916年〈大正5年〉)は、京都を拠点に活動した日本画家で、江戸時代末期から明治・大正期にかけて活躍しました。彼は、宮中御用を務めた原派の第4代目として、伝統的な大和絵の技法を継承しつつ、近代日本画の発展に寄与しました。 生涯と経歴 原在泉は、京都で生まれ、原派第3代の原在照の養子となり、幼少期より絵画の修行を積みました。13歳の時には禁中の御用絵師として「秋草」を制作し、早くから才能を発揮しました。その後、讃岐や武蔵などを遊歴し、各地で研鑽を積みました。 明治13年(1880年)には京都府画学校(現・京都市立芸術大学)の教諭となり、後進の指導にあたりました。また、明治15年(1882年)には第1回内国絵画共進会で審査員を務め、同展で銅印を受賞。明治17年(1884年)の第2回展では銅章を受賞し、同年開催されたパリ日本美術縦覧会にも「金閣寺」を出品しました。さらに、明治26年(1893年)のシカゴ万博にも出品するなど、国内外で活躍しました。 作風と代表作 原在泉の作品は、有職故実に基づいた格調高い画題を、優美な画風で描いたものが多く、特に大和絵の伝統を重んじた作品が特徴です。彼の代表作には、「平安神宮真景図」などがあり、現在も古美術市場で高く評価されています。 また、仁和寺の宸殿において、1913年に制作された障壁画も彼の代表作の一つであり、季節感あふれる風景描写が高く評価されています。 教育と後進の育成 原在泉は、京都府画学校で教鞭をとり、多くの後進を育成しました。彼の門下には、遠藤速雄(えんどう はやお)などがいます。遠藤速雄は、明治15年(1882年)に第1回内国絵画共進会に出品し、翌年にはパリで開催予定の「巴里日本美術縦覧会」の出品者に指名されるなど、師の影響を受けて活躍しました。 原派とその影響 原在泉が継承した原派は、江戸時代中期に原在中(はら ざいちゅう)によって創始された画派で、宮中御用を務めるなど、京都画壇で大きな影響力を持ちました。原在泉は、その第4代目として、伝統を守りつつも、明治・大正期の近代化の波に対応し、展覧会への出品や教育活動を通じて、原派の技法と精神を次世代に伝えました。 原在泉の作品は、現在も京都市美術館や京都国立博物館などに所蔵されており、その繊細で格調高い画風は、多くの人々に親しまれています。また、古美術市場でも高い評価を受けており、彼の作品を通じて、明治・大正期の日本画の魅力を感じることができます。 |