奥原晴湖おくはらせいこ
時代 | 大正時代 |
---|---|
カテゴリー | 掛け軸,絵画、書画 |
作品種別 | 日本画 |
プロフィール | 奥原 晴湖(おくはら せいこ、天保8年8月15日(1837年9月14日)- 大正2年(1913年)7月28日)は、幕末から明治期の画家。野口小蘋とともに明治の女流南画家の双璧といわれ、また安田老山と関東南画壇の人気を二分した。 本名は池田せつ(節)、通称せい子。はじめ石芳と号するが、のちに秋琴・珠琴・蘭瑛・雲錦・静古・星古等とした。堂号(居宅・画室)に墨吐煙雲楼・繍水草堂など。下総古河町(茨城県古河市)の人。 奥原晴湖(おくはら せいこ、1837年9月14日 – 1913年7月28日)は、幕末から明治期にかけて活躍した日本の女性南画家で、野口小蘋と並び称される存在でした。彼女は、詩・書・画を融合させた文人画(南画)の分野で独自の地位を築き、女性が画壇で活躍することが難しかった時代において、数多くの門弟を育成し、明治美術界に大きな影響を与えました。 生涯と画業 奥原晴湖は、下総国古河宿(現在の茨城県古河市)で、古河藩大番頭・池田繁右衛門政明の四女として生まれました。幼名は「せつ」、通称は「せい子」、本名は「節子」とされ、号は「石芳」「秋琴」「珠琴」「蘭瑛」「雲錦」「静古」「星古」など複数を用いました。16歳の頃、谷文晁の門人である枚田水石に師事し、南北合体の画風を学びました。その後、渡辺崋山に私淑し、南画に転向しました。 1865年(慶応元年)、母方の親戚である奥原源左衛門の養女となり、江戸に出て「晴湖」と号し、上野摩利支天横丁に画室「墨吐煙雲楼」を構えました。明治時代に入ると、木戸孝允や山内容堂の庇護を受け、多くの文人と交流しました。1871年(明治4年)には「春暢家塾」を開業し、最盛期には門人が300人を超えたといわれています。1874年(明治7年)には、鷲津毅堂や川上冬崖らとともに文人グループ「半閑社」を結成し、文人画の隆盛に尽力しました。 1891年(明治24年)、鉄道用地の拡張に伴い、画室を埼玉県熊谷市に移し、新たに「繍水草堂(しゅうすいそうどう)」を構えました。この地で晩年まで創作活動を続け、1913年(大正2年)に亡くなりました。 画風と作品 奥原晴湖の作品は、詩・書・画を一体とした文人画の特徴を持ち、特に山水画や花鳥画に優れています。彼女の作品には、自作の漢詩を添えることが多く、独自の書体で書き込まれています。代表作には、『深天上按図』や『富貴飛燕・芙蓉翡翠』などがあります。また、彼女の作品は、東京富士美術館や茨城県近代美術館などに所蔵されています。 教育者としての功績 奥原晴湖は、多くの門人を育成し、その中には、東京美術学校の創設に関わり、明治美術界を牽引した岡倉天心も含まれます。また、奥原晴翠や滝脇晴華、渡辺晴嵐などの弟子も輩出し、女性画家としての地位を確立しました。 晩年と顕彰 晩年は、熊谷市に隠棲し、創作活動を続けました。彼女の画室「繍水草堂」は、後に古河市に移築され、現在は古河歴史博物館の敷地内に保存されています。また、熊谷市や古河市では、彼女の功績を顕彰する活動が行われており、展覧会や記念事業が開催されています。 奥原晴湖は、明治時代における女性画家の先駆者として、その生涯を通じて文人画の発展に寄与し、多くの後進を育てました。彼女の作品と功績は、現在も多くの人々に影響を与え続けています。 |