梁川紅蘭やながわこうらん

時代 明治時代
カテゴリー 掛け軸,絵画、書画
作品種別 日本画
プロフィール 梁川 紅蘭(やながわ こうらん、文化元年3月15日(1804年4月24日) - 明治12年(1879年)3月29日)は、江戸時代後期から明治時代初期の女流漢詩人である。名は「景」または「景婉」、後に、名を「芝香」、字を「玉書」「月華」「紅鸞」とも称していた。紅蘭は号。姓を「張」「張氏」とし、「張 紅蘭」「張氏 紅蘭」とも称していた。
夫は梁川星巌であり、星巌とは又従兄妹の関係である。

梁川紅蘭(やながわ こうらん、1804年3月15日 – 1879年3月29日)は、幕末から明治初期にかけて活躍した日本の女性漢詩人・画家であり、梁川星巌(やながわ せいがん)の妻としても知られています。彼女は詩作や絵画に優れ、特に詩集『紅蘭小集』や絵画作品『群蝶図』などが知られています。

生涯と経歴
紅蘭は美濃国安八郡曽根村(現在の岐阜県大垣市曽根町)の郷士・稲津長好の次女として生まれました。14歳のとき、又従兄である梁川星巌が開いた私塾「梨花村草舎」に入門し、漢詩を学びました。その後、17歳で32歳の星巌と結婚しました。


結婚後、星巌は紅蘭に『三体詩』の絶句部分を暗記するよう命じて旅に出ましたが、紅蘭は全巻を暗記し、詩作にも励むようになりました。以後、夫婦で全国を巡る旅を続け、詩作や交流を深めました。


安政5年(1858年)、星巌がコレラで急死した後、紅蘭は安政の大獄で投獄されましたが、半年後に釈放されました。その後は京都で私塾を開き、詩文を教えるなどして過ごしました。


詩作と画業
紅蘭は生涯で400首以上の漢詩を残し、詩集『紅蘭小集』を著しました。また、絵画にも優れ、『群蝶図』などの作品が知られています。彼女の作品は、詩文と絵画が一体となった構成で、鑑賞者に深い印象を与えるものでした。


晩年と顕彰
紅蘭は明治12年(1879年)に76歳で亡くなりました。その後、大正13年(1924年)に従五位を追贈されました。現在、出身地の岐阜県大垣市曽根には、梁川星巌記念館があり、曽根城公園には星巌と紅蘭を顕彰する銅像が設置されています。


梁川紅蘭は、幕末から明治初期にかけての日本において、詩作や絵画に優れた女性として活躍し、その生涯は多くの人々に影響を与えました。