倉石乾山くらいしけんざん
時代 | 明治時代 |
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カテゴリー | 掛け軸,絵画、書画 |
作品種別 | 日本画 |
プロフィール | 1799-1869 江戸時代後期の画家。 寛政11年生まれ。倉石米山の子。越後(えちご)(新潟県)高田の人。山水画,蘭竹(らんちく)画をよくした。明治2年4月11日死去。71歳。 倉石乾山(くらいし けんざん、1799年 – 1869年)は、江戸時代後期から明治初期にかけて活躍した日本の南画家であり、越後(現在の新潟県上越市)を拠点に活動しました。彼は、父・倉石米山(べいざん)のもとで画技を学び、さらに南画の大家・釧雲泉(くしろ うんせん)にも師事しました。その画風は山水画を中心に、蘭竹などの四君子を描くことにも長けていました 。 生涯と背景 倉石乾山は、寛政11年(1799年)に越後高田下小町(現在の新潟県上越市)で生まれました。本名は光雁(こうがん)、字は輝翅(きし)、通称は久吉で、後に家督を継いで「甚助」を名乗りました。別号として「楓石軒(ふうせきけん)」も用いています 。 父・倉石米山は、豪商「角の倉石」として知られ、画家としても活動しており、釧雲泉に師事して山水画を得意としていました。乾山は幼少期から父に画を学び、さらに釧雲泉にも師事しました。釧雲泉は、肥前島原藩士の子として生まれ、中国古画に学び、山水画を得意とした南画家であり、越後に本格的な南画を伝えた人物です 。 画風と作品 倉石乾山は、山水画を得意とし、蘭竹などの四君子を描くことにも長けていました。彼の作品は、南画の伝統を受け継ぎつつも、独自の表現を追求しており、越後地方の画壇において重要な存在となりました。 越後画壇での役割 倉石乾山は、越後地方の画壇において中心的な役割を果たしました。彼は、同時代の画家である大瀧石山、青木崑山とともに「頚城の三山」と称され、地域の南画の発展に寄与しました。また、釧雲泉の教えを受けた他の画家たちとも交流し、越後における南画の普及に尽力しました 。 晩年と死去 倉石乾山は、明治2年(1869年)に71歳で亡くなりました。彼の生涯は、越後地方における南画の発展と普及に大きく貢献したものであり、その功績は現在も評価されています 。 倉石乾山の作品や活動についてさらに詳しく知りたい場合は、新潟県内の美術館や資料館、または関連する書籍や展覧会のカタログなどを参照されることをおすすめします。 |