浅野梅堂あさのばいどう
時代 | 明治時代 |
---|---|
カテゴリー | 絵画、書画 |
作品種別 | 日本画 |
プロフィール | 浅野 長祚(あさの ながよし、文化13年6月9日(1816年7月3日) - 明治13年(1880年)2月17日)は、江戸時代末期(幕末)から明治時代にかけての幕臣(旗本)、蔵書家、芸術鑑定家。通称は金之丞。官途は中務少輔、和泉守、備前守など。号の「梅堂」も有名。他に池香、蒋潭、蝦侶斎漱芳閣、楽是幽居、柏洪楼などとも名乗った。娘の花子は川路寛堂に嫁いでいる。 浅野梅堂(あさの ばいどう、1816年6月9日 – 1880年2月17日)は、幕末から明治初期にかけて活躍した幕臣、書画家、芸術鑑定家です。本名は浅野長祚(ながよし)で、字は胤卿(いんけい)、号は池香(ちこう)、蒋潭(しょうたん)、晩年には梅堂と称しました。播磨国赤穂藩浅野家の支族である家原浅野家の出身で、江戸飯田町(現在の東京都千代田区)に生まれました。 幕臣としての経歴 浅野梅堂は、幕府に仕え、天保10年(1839年)に使番となり、翌年には目付、さらに甲府勤番支配を歴任しました。甲府では、幕府の学問所である徽典館の初代学頭として、昌平坂学問所から友野霞舟と乙骨耐軒を招くなど、教育にも尽力しました。その後、浦賀奉行や京都町奉行を務め、安政元年(1854年)の皇居炎上後には禁裏造営掛として京都御所の再建に尽力し、『安政御造営誌』をまとめました。しかし、日米修好通商条約締結に際しての政治的立場から、井伊直弼に疎まれ、小普請奉行に左遷され、後に免職となりました。明治維新後は官職に就かず、隠居生活を送りました。 書画家としての活動 浅野梅堂は、栗本翠庵に画を学び、後に椿椿山の門人となりました。花卉画を得意とし、代表作に『果蔬図』(東京国立博物館所蔵)や『白兎図』などがあります。また、明清時代の中国書画を多数収集し、その目録として『漱芳閣書画記』を、画論として『漱芳閣書画銘心録』を著しました。 文化財としての評価 浅野梅堂の作品は、東京国立博物館や静岡県立美術館などに所蔵されており、現在でも高い評価を受けています。特に『白兎図』は、明治時代の花鳥画の代表作として知られています。 浅野梅堂は、幕末から明治初期にかけての激動の時代に、政治家としてだけでなく、書画家としても多大な功績を残しました。その作品や著作は、現在でも日本美術史や書画研究において重要な資料とされています。 |