村瀬秋水むらせしゅうすい
時代 | 明治時代 |
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カテゴリー | 掛け軸,絵画、書画 |
作品種別 | 日本画 |
プロフィール | 幕末・維新の書画家。美濃生。総庄屋村瀬平次郎の子。兄は頼山陽の高弟村瀬藤城。名は徽、字は世猷、通称を平三郎、別号に韓江・秋翁等。初め張月樵に学び、のち中林竹洞・野呂介石に就く。また頼山陽に詩文の教えを受け、長崎では僧鉄翁祖門とも交わる。詩書画ともに風韻に富み、近世南画壇に重きをなした。著書に『南遊墨戯』『南画門答』等。明治9年(1876)歿、82才。 村瀬秋水(むらせ しゅうすい、1794年または1795年 – 1876年)は、江戸時代後期から明治初期にかけて活躍した文人画家であり、美濃国(現在の岐阜県美濃市)出身です。彼は南画(文人画)の分野で特に知られ、郷土の画壇に大きな影響を与えました。 生涯と背景 秋水は、美濃国武儀郡上有知村の庄屋で造り酒屋を営む村瀬敬忠の三男として生まれました。名は清(のちに徴)、字は世猷、通称は真吾・太六・平三郎、号に芝蘭堂・鋤雲室・韓江などがあります。幼少期から張月樵に画を学び、30歳のときに野呂介石に入門しました。また、兄の村瀬藤城が頼山陽の高弟であったことから、頼山陽の社中に加わり、漢詩文の教えも受けました。 家業の手伝いを続けながらも、画業に励み、特に南宗画の研究に力を注ぎました。44歳のときには長崎を訪れ、唐通事・水野湄川の仲介で清国の文人・陸如金と交流し、古画の鑑賞を通じて画技を深めました。兄・藤城の死後は分家して山中に隠棲し、約20年間郷里を離れずに画業に専念しました。 作品と著述 秋水の代表的な作品には以下のようなものがあります: 「冨春山図」(55歳時) 「琵湖秋色画巻」(57歳時) 「倣梅道人筆意図」(57歳時) 「山静日長図」(60歳時) 「雪中騎驢孟浩然図」(70歳時) 「醉翁亭図」(71歳時) 「鵞鳥図」(78歳時) また、著述としては『南画問答』『己未秋日作草稿』『秋水山人墨戯』などがあり、南画の理論や自身の画業について記しています。 一族と門人 秋水の画技は一族にも受け継がれました。長男の村瀬雪峡(1827–1879)は、江戸や京都で学問を修めた後、帰郷して伯父・藤城とともに門下生を指導しました。雪峡の長男である村瀬藍水(1861–1892)も秋水や雪峡に師事し、後に清国に渡って名声を得ました。 また、秋水の門人には森半逸、野川湘東、山内石泉、後藤蘇山、後藤釣雪、高井對雲、塚原南岳などがいます。彼らは秋水の教えを受け、美濃地方を中心に南画の普及に貢献しました。 村瀬秋水は、家業と画業を両立させながら南画の発展に尽力し、その影響は一族や門人を通じて広がりました。彼の作品や著述は、現在でも南画研究において重要な資料とされています |