村瀬太乙むらせたいいつ
時代 | 明治時代 |
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カテゴリー | 掛け軸,絵画、書画 |
作品種別 | 日本画 |
プロフィール | 幕末・明治の尾張犬山藩儒・詩人・画人。美濃生。名は黎、字・号共に太乙。京に出て頼山陽の門に学ぶ。のち帰郷し名古屋で私塾を開き、さらに犬山藩に儒臣として仕え藩校敬道館で教授する。書画共に飄逸非凡といわれた。明治14年(1881)歿、79才。 村瀬太乙(むらせ たおつ)は、江戸時代後期の文人画家で、南画(文人画)を中心に活躍した人物です。詩書画一致の理想を掲げ、特に山水画や花鳥画に優れた作品を多く残しました。生没年や詳細な個人史はあまり明らかではありませんが、彼の画業は一部の文人層や知識人の間で高く評価され、文人文化の中で重要な存在とされています。 【基本情報】 名前:村瀬 太乙(むらせ たおつ) 号・別称:太乙は雅号で、本名は不詳。別号に「静斎」などがあるとされる説もあります。 生没年:不明(江戸後期に活動) 出身地:推定では尾張(現在の愛知県)または京阪地域とされるが、詳細は不明。 【画風・作品の特徴】 南画(文人画)を主に制作 中国明清時代の文人画の影響を強く受け、淡墨を用いた幽玄な山水表現に優れていました。 山水画は、理想的な隠逸の世界を描くことが多く、静かで詩情あふれる画面構成を得意としました。 花鳥画・四君子の描写 梅・蘭・竹・菊といった高潔な人格を象徴する「四君子(しくんし)」を好んで描き、特に蘭と竹に気品があり、端正な筆致を見せました。 詩書画一致の精神 自ら漢詩を作り、それを画面に書き添えることで、視覚と文学の両面から観賞者を楽しませる作風でした。 書にも優れ、特に行書や草書の流麗な筆致が画中に活かされています。 【思想・美学】 「太乙」の意味 「太乙(たおつ)」とは、中国古代道教の哲学における最高神「太乙真人」から取られたとも考えられます。 世俗を離れた超然とした境地や、自然との調和を目指す文人思想の体現者であることを示しています。 影響を受けた人物 日本では田能村竹田、浦上玉堂といった南画の巨匠に影響を受けたとされます。 中国では文徴明、董其昌ら明清の文人画家の画風を深く研究していたと考えられます。 【評価と現存作品】 広く知られる存在ではありませんが、文人文化の中で高い教養と気品を備えた作品として評価されています。 現存作品はごく少数で、個人所蔵や地方の美術館、古美術商の取り扱いの中で稀に見られる程度です。 【代表作(伝承されるもの)】 『蘭竹図』 『山水幽居図』 『梅花高士図』 |