佐竹永湖さたけえいこ

時代 明治時代
カテゴリー 掛け軸,絵画、書画
作品種別 日本画
プロフィール 佐竹 永湖(さたけ えいこ、天保 6年12月(1835年) - 明治42年(1909年)7月23日)は幕末から明治期の画家。佐竹永海の養嗣子。
旧姓加藤。名ははじめ金太郎のち子璋。永湖は号、別号に泰峩・巍々堂・九成堂など。江戸の生まれ。

佐竹永湖(さたけ えいこ、1835年〈天保6年〉12月 – 1909年〈明治42年〉7月23日)は、幕末から明治時代にかけて活躍した日本画家で、南北合派の画風を継承・発展させた重要な人物です。本姓は加藤、幼名は金太郎、名は子璋(ししょう)。号は永湖のほか、泰峩(たいが)、巍々堂(ぎぎどう)、九成堂などを用いました。

生涯と画業
江戸・三田の金方加藤金之助の子として生まれ、11歳のときに鳥取藩の絵師・沖一峨に師事し、土佐派や狩野派の画法を学びました。その後、佐竹永海の門下となり、画才を認められて養子となります。「永湖」の号は、井伊家の御前で揮毫した際、師の「永」と井伊家の知行地である琵琶湖の「湖」を組み合わせて名乗ったと伝えられています。

明治維新後は一時生活に困窮し地方を遊歴しましたが、東京に戻ってからは内国絵画共進会や内国勧業博覧会に出品し、銅印や妙技二等賞などを受賞して名声を高めました。また、日本美術協会を中心に活動し、宮内省の御用絵師として内外の賓客の前で揮毫する栄誉も得ました。日本画会の審査員も務め、晩年には画壇の長老として敬われました。

作風と代表作
佐竹永湖は、谷文晁系の南北合派の画風を継承し、山水画や人物画に優れた作品を残しました。代表作としては、「雲中西王母図」や「人形使」などがあり、繊細な筆致と豊かな色彩感覚が特徴です。また、松戸神社神楽殿の格天井絵や杉戸絵の制作にも携わり、建造物に描かれた絵画の修復と継承に貢献しました。

門下生と影響
佐竹永湖の門下には、多くの優れた画家が育ちました。その中には、福田浩湖、山川永雅、岡田蘇水、田村豪湖などが含まれます。また、養子である佐竹永陵(旧姓黒田銀十郎)は、永湖の画風を受け継ぎ、日本美術協会の委員や南宗画会の創設に関与するなど、画壇で活躍しました。

作品の評価と現在
佐竹永湖の作品は、現在も美術市場で高い評価を受けており、オークションなどで取引されています。例えば、掛軸「雪中旅思」や「観瀑図」などが出品され、コレクターや美術愛好家の間で人気があります。

佐竹永湖は、幕末から明治時代にかけての日本画壇において、南北合派の画風を継承・発展させ、多くの優れた作品と後進を育てた画家として、その功績は今なお評価されています。