久保田米僊くぼたべいせん
時代 | 明治時代 |
---|---|
カテゴリー | 掛け軸,絵画、書画 |
作品種別 | 日本画 |
プロフィール | 久保田 米僊(くぼた べいせん、嘉永5年2月25日(1852年3月15日) - 明治39年(1906年)5月19日)は、明治時代の日本画家、画報記者。 久保田米僊(くぼた べいせん、1852年3月15日 – 1906年5月19日)は、明治時代の日本画家・画報記者であり、京都を拠点に多彩な活動を展開した人物です。本名は久保田満寛(みつひろ)で、字は簡伯。号として米僊、米仙、漁村、錦鱗子、紫桜庵、塵芥頭陀などを用いました。 生涯と経歴 京都錦小路東洞院西入元法然寺町に生まれ、幼少期から絵に親しみました。慶応3年(1867年)、15歳のときに四条派の鈴木百年に師事し、画業の道を歩み始めます。明治13年(1880年)には、幸野楳嶺や望月玉泉らと共に京都府画学校の設立に尽力し、翌年には同校の議事および工業委員に選ばれました。 明治15年(1882年)の第1回内国絵画共進会では、京都の画人を代表して出品人総代として上京し、審査員を務めました。出品作は銅牌と絵事功労賞を受け、続く第2回展では「朧月夜」を出品し、銀章を受賞して世に知られるようになります。 国際的な活動と報道画家としての功績 明治22年(1889年)、私費でフランスに渡り、パリ万国博覧会に「水中遊漁」を出品して金賞を受賞しました。また、ギメ東洋美術館に「年中行事絵巻」を寄贈し、ローヤル・アカデミー賞を贈与されるなど、国際的な評価を得ました。 明治23年(1890年)には徳富蘇峰の誘いにより上京し、國民新聞社に入社。挿絵を手がける傍ら、芝桜田町に「司馬画塾」を開き、後進の育成にも努めました。明治26年(1893年)にはシカゴ万国博覧会に出品し、特派員として視察。その様子を木版画図譜『閣龍世界博覧会美術品画譜』として出版しました。翌年の日清戦争では従軍画家として『日清戦闘画報』を描き、戦場の様子を生き生きと伝えました。 作風と代表作 久保田米僊は、特定の流派にとらわれず、作品ごとに多様な画風を試みました。歴史画、風俗画、漫画、小説の挿絵など幅広いジャンルで活躍し、写実的な描写と鋭い観察眼を持ち味としました。代表作には、「蔦もみじ」(1882年)や「由良之助遊興之図」(1883年)などがあり、京都国立近代美術館に所蔵されています。 晩年と遺産 明治27年(1894年)には、岡倉天心の招きで石川県工芸学校に赴任しましたが、2年後に眼病を患い辞職。その後、完全に失明しました。明治35年(1902年)には『米僊画談』を上梓し、画業の集大成をまとめました。明治39年(1906年)、54歳で亡くなりました。 久保田米僊は、明治時代の日本画壇において革新的な存在であり、国内外での活躍を通じて日本美術の発展に大きく貢献しました。その作品や活動は、現在も多くの美術館や研究者によって評価されています。 |