狩野永悳かのうえいとく

時代 明治時代
カテゴリー 掛け軸,絵画、書画
作品種別 日本画
プロフィール 狩野 永悳(かのう えいとく、文化11年12月15日(1815年1月24日) - 明治24年(1891年)1月29日)は幕末から明治期の狩野派の絵師、日本画家。安土桃山時代を代表する絵師・狩野永徳と同じ読みであるが、無論別人である。狩野栄信の六男。兄に木挽町を継いだ長兄狩野養信、朝岡氏に養子入りし『古画備考』を著した次兄朝岡興禎、浜町狩野家を継いだ五兄狩野董川中信がいる。

狩野永悳(かのう えいとく、1815年1月24日〈文化11年12月15日〉– 1891年1月29日〈明治24年〉)は、幕末から明治期にかけて活躍した狩野派の絵師であり、日本画家です。江戸狩野派の宗家である中橋狩野家の第15代当主として、伝統を守りつつも新たな時代の要請に応え、近代日本美術の基礎を築いた重要な人物です。


生涯と経歴

出自と養子縁組:江戸木挽町に生まれ、狩野伊川院栄信の六男として育ちました。本名は立信(たちのぶ)、幼名は熊五郎、号は晴雲斎・晴雪斎など。後に中橋狩野家の狩野祐清邦信の養子となり、宗家第15代を継承しました。

幕府御用絵師としての活動:嘉永元年(1848年)に幕府御用絵師に任命され、安政4年(1857年)に法橋、翌年に法眼の位を授かりました。徳川家斉から家茂までの4代の将軍に仕え、江戸城本丸御殿の障壁画制作など、多くの幕府御用を手がけました。

明治維新後の活動:明治維新後も皇居造営に携わり、皇后宮御殿の杉戸や小襖に作品を描きました。また、明治11年(1878年)に来日したアーネスト・フェノロサに古画の研究と鑑定法を教授し、日本美術史学の形成に寄与しました。明治23年(1890年)には帝室技芸員に任命されました。

作風と代表作

狩野永悳は、狩野派の伝統を継承しつつも、時代の変化に対応した作品を多数制作しました。彼の作品は、国内外の美術館に所蔵されており、その技術と美意識は高く評価されています。

『四季山水図』:絹本墨画金泥引、3幅対、ボストン美術館所蔵。

『武者図屏風』:紙本金地著色、六曲一双、ライデン国立民族学博物館所蔵。

『風俗・物語・花鳥図画帖』:絹本著色、2帖100図のうち上帖15図、ウィーン美術史美術館所蔵。

『四季花籠図』:杉板地著色、2面、宮内庁所蔵。

『富士図』:絹本著色、1幅、三の丸尚蔵館所蔵。

門下生と影響

狩野永悳は、多くの弟子を育て、狩野派の技術と精神を次世代に伝えました。主な門下生には、武内桂舟、狩野忠信、小林永濯、田中(狩野)永雲などがいます。また、川辺御楯や河鍋暁斎も一時期彼に学びました。

まとめ

狩野永悳は、江戸狩野派の宗家として、幕末から明治という激動の時代において、伝統を守りつつも新たな美術の潮流に対応した画家です。彼の作品と教育活動は、日本美術の発展に大きく貢献し、現在でもその功績は高く評価されています。

狩野永悳の作品は、国内外の美術館で所蔵されており、展覧会などで鑑賞することができます。また、オークションや古美術商を通じて、彼の作品に触れる機会もあります。