山名貫義やまなつらよし

時代 明治時代
カテゴリー 掛け軸,絵画、書画
作品種別 日本画
プロフィール 山名 貫義(やまな つらよし、天保7年3月1日(1836年4月16日) - 明治35年(1902年)6月11日)は、明治時代の日本画家。現在ではあまり知られていないが、当時は大和絵最後の大家として高く評価されていた画家である。

山名貫義(やまな つらよし)は、南北朝時代から室町時代初期にかけて活躍した武将・守護大名で、山名氏の中でも特に重要な人物の一人です。南朝方の忠臣として知られ、のちに室町幕府と対立しながらも西国の広い範囲に勢力を築きました。

基本情報

氏名:山名 貫義(やまな つらよし)
生没年:不詳(14世紀前半~後半)
出自:山名氏(新田氏の流れを汲む上野国の武士)
官位:従五位下、刑部大輔など
別称:山名左衛門督とも呼ばれる
出自と家系

山名氏は、新田義重を祖とする新田氏の支流で、鎌倉時代以降に但馬国(現在の兵庫県北部)を中心に勢力を広げた名家です。貫義はその山名氏の中でも有力な系統に属し、のちの「六分の一殿」と呼ばれる山名宗全の先祖にあたります。

南北朝時代の活動

南朝への忠誠
山名貫義は南北朝時代、後醍醐天皇の南朝側についた武将として活躍。
初期には新田義貞と共に、幕府軍と戦いました。
その後、各地の合戦に参戦し、南朝勢力の重要な支柱の一人とされました。
室町幕府との対立
南朝の衰退とともに、足利尊氏が建てた室町幕府と対立する形で西国に拠点を築く。
ただし、時には幕府に降ることもあり、状況に応じて行動を変える柔軟さも見られました。
領国支配と影響力

但馬国守護としての地位を確立。
山陰・山陽地方における支配体制の基礎を築きました。
山名氏はその後、数代にわたり11か国の守護職を兼ねるほどの勢力となり、**「六分の一殿(日本の六分の一を領有する)」**と称されるまでになります。
この発展の基盤を築いたのが、貫義の時代の戦略と戦功でした。
死後と評価

死没年ははっきりしていませんが、南朝の劣勢が強まった14世紀後半に没したとされます。
山名宗全(細川勝元と並ぶ応仁の乱の重要人物)につながる山名家の礎を築いた存在として、後世の家中でも尊敬を集めました。
関連人物

新田義貞:南朝方の盟主格で、貫義の初期の同盟者。
後醍醐天皇:貫義が忠誠を尽くした南朝の天皇。
山名宗全:貫義の曾孫で、応仁の乱の主導者。
山名貫義の歴史的意義

貫義の活躍は、南北朝時代の地域勢力構造を理解する上で重要です。
室町時代の山名氏の繁栄に至る礎を築いた点でも、戦国大名の「守護大名化」の初期形と見ることができます。
南朝の忠臣としても、後世に多くの軍記物や系図類で評価され、歴史画や先哲図などの題材になることもありました(※例えば、菊池容斎『先哲像伝』にも描かれることがあります)。