田能村直入たのむらちょくにゅう
時代 | 明治時代 |
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カテゴリー | 掛け軸,絵画、書画 |
作品種別 | 日本画 |
プロフィール | 田能村 直入(たのむら ちょくにゅう、文化11年2月10日(1814年3月31日) - 明治40年(1907年)1月21日)は、幕末から明治時代にかけて活躍した日本画家。日本最後期の文人画家として知られる。 田能村竹田の養継子。幼名は、はじめ松太、のち傳太。諱は、はじめ蓼、のち痴。字は、はじめ虚紅、のち顧絶。号は、はじめ小虎、のち直入。通称は小虎とした。別号に竹翁、忘斎、煌斎、芋仙、布袋庵、無声詩客などがある。豊後直入郡竹田町(現在の大分県竹田市)生まれ。 田能村直入(たのむら ちょくにゅう、1814年〈文化11年〉– 1907年〈明治40年〉)は、幕末から明治時代にかけて活躍した南画(文人画)家で、近世南画の大家・田能村竹田(たけだ)の養子・門人としても知られます。詩書画三絶の文人理想を体現し、明治期には南画界の重鎮として活躍しました。 基本情報 名前:田能村 直入(たのむら ちょくにゅう) 本名:村田 直入(むらた ちょくにゅう) 生年:1814年(文化11年) 没年:1907年(明治40年) 出身地:豊後国(現在の大分県竹田市) 流派:南画(文人画) 師匠・養父:田能村竹田(南画の巨匠) 号:直入、梅荘、梅荘外史、竹洞、画史山人など多数 略歴と活動 幼少期〜青年期 幼い頃より書画に親しみ、10代で**田能村竹田(たのむら たけだ)**に師事。のちに養子となる。 南画の伝統を学ぶと同時に、詩文・漢学にも通じた本格的な文人として修養を積んだ。 江戸〜明治維新期 江戸や京都などで活躍し、文人サロンにも出入り。頼山陽、貫名海屋、富岡鉄斎らと交流があったとされる。 明治維新後は東京・京都・大阪を行き来しながら南画の普及に努める。 明治期の功績 明治政府の要請に応じて、東京美術学校(現・東京藝術大学)で教鞭を執る(のち辞任)。 明治美術界では数少ない文人画の正統派として尊敬を集め、**南画の“最後の巨匠”**とも称される。 作風と画題 1. 南画の正統を守る 師である田能村竹田の詩情・筆法を受け継ぎ、清雅・端正・詩意あふれる作風を展開。 特に山水画・花鳥画・人物画において気品ある筆致と構成美を兼ね備える。 2. 詩書画一体の表現 自作の漢詩を絵に添えることで、絵画と文学の融合=詩画一致の世界観を実現。 書も能くし、行草・隷書を自在に操る。 3. 宗教的・哲学的題材 孟子、老荘、仏教思想などをテーマにした人物画や寓意画も制作。 画面から知的・精神的深みが感じられる作品が多い。 主な代表作(一部) 作品名 特徴 「山水図」 高潔な詩情を湛える南画の典型 「梅花図」 自号「梅荘」にちなんだ梅の絵が多数 「漁父図」 隠者的人物像を詩情豊かに描く 「騎牛帰家図」 禅的含意を持つ帰郷図、晩年の傑作 人物像と影響 学識豊かで人格的にも高潔とされ、弟子や後進から深く尊敬された。 明治期の南画家・文人(富岡鉄斎、谷文晁、椿椿山、野口幽谷など)と思想的・技法的に通じ合い、**“南画精神の伝統継承者”**と見なされる。 晩年は京都で過ごし、書画・交流に明け暮れた穏やかな生活を送る。 近代美術史における評価 明治以降、日本画は狩野派〜大和絵〜朦朧体と変遷したが、直入は南画の伝統を守る保守的立場にありつつも、明治国家の中で高く評価された数少ない文人画家。 日本画の革新運動とは距離を置いたが、その詩文と絵画の融合の精神は、鉄斎などに影響を与えた。 まとめ 項目 内容 名前 田能村直入(たのむら ちょくにゅう) 生没年 1814年〜1907年 出身 豊後国(大分県竹田市) 流派 南画(文人画)、田能村竹田の継承者 作風 詩意に富む山水・花鳥・人物画。清雅で端正 評価 明治南画界の巨頭、南画の正統継承者として高く評価 |