北尾政演きたおまさのぶ

時代 江戸時代
カテゴリー 掛け軸,絵画、書画
作品種別 浮世絵
プロフィール 山東 京伝(さんとう きょうでん、宝暦11年8月15日(1761年9月13日) - 文化13年9月7日(1816年10月27日))は、江戸時代後期の浮世絵師、戯作者。寛政の改革における出版統制により手鎖の処罰を受けた。

北尾政演(きたお まさのぶ)は、江戸時代後期の浮世絵師・戯作者として知られる山東京伝(さんとう きょうでん、1761年–1816年)の画号です。​彼は、浮世絵師としての活動を「北尾政演」の名で行い、戯作者としては「山東京伝」の名で多くの作品を残しました。​

生涯と経歴
山東京伝は、宝暦11年(1761年)に江戸・深川木場の質屋・岩瀬伝左衛門の長男として生まれました。​幼名は甚太郎、通称は伝蔵で、後に「京伝」と名乗るようになります。​安永4年(1775年)頃、14歳で浮世絵師・北尾重政に入門し、「北尾政演」の画号を得て、挿絵や錦絵を手がけるようになりました。​

安永7年(1778年)には、黄表紙『開帳利益札遊合』の挿絵を担当し、これが最初の作品とされています。​以降、浮世絵師として活動する傍ら、戯作者としても才能を発揮し、多くの黄表紙や洒落本を執筆しました。​

作風と代表作
北尾政演としての作品は、主に挿絵や錦絵が中心で、美人画や風俗画を得意としました。​代表作には、蔦屋重三郎から刊行された『新美人合自筆鏡』などがあります。​

山東京伝としての代表作には、黄表紙『江戸生艶気樺焼』や洒落本『仕懸文庫』などがあり、当時の風俗や世相を風刺した作品で人気を博しました。​また、寛政の改革による出版統制の中でも、教訓的な内容を取り入れた『心学早染草』などを発表し、庶民の支持を得ました。​

商人としての活動
京伝は、戯作者・浮世絵師としての活動の傍ら、銀座に「京屋」という煙草入れや煙管などの小物を扱う店を開きました。​自らデザインした紙製煙草入れは評判を呼び、店の商売も繁盛しました。​このように、芸術と商業を融合させた活動は、現代のマーケティングの先駆けとも評価されています。​

寛政の改革と処罰
寛政元年(1789年)、京伝が挿絵を担当した黄表紙『黒白水鏡』が政変を風刺したとして問題視され、罰金刑を受けました。​さらに、寛政3年(1791年)には、洒落本『仕懸文庫』などが風紀を乱すとして絶版となり、京伝は手鎖50日の刑に処せられました。​これらの処罰により、京伝は洒落本から撤退し、読本や随筆などの執筆に専念するようになりました。​

晩年と死去
文化13年(1816年)9月7日、京伝は胸痛の発作により56歳で死去しました。​墓所は東京都墨田区両国の回向院にあり、弟の山東京山とともに葬られています。​

北尾政演(山東京伝)は、浮世絵師・戯作者・商人として多才な才能を発揮し、江戸時代の文化に大きな影響を与えました。​彼の作品や活動は、現在でも多くの人々に親しまれ、研究の対象となっています。