月岡雪鼎つきおかてっせい
時代 | 江戸時代 |
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カテゴリー | 掛け軸,絵画、書画 |
作品種別 | 浮世絵 |
プロフィール | 月岡 雪鼎(つきおか せってい、享保11年(1726年)- 天明6年12月4日(1787年1月22日))は、江戸時代中期から後期にかけて活躍した浮世絵師。 月岡雪鼎(つきおか せってい、1710年または1726年 – 1787年)は、江戸時代中期から後期にかけて活躍した浮世絵師であり、大坂画壇の中心人物として知られています。彼の作品は、美人画や風俗画を中心に、古典文学を題材とした作品や魚類図など多岐にわたり、後の浮世絵師たちに大きな影響を与えました 。 生涯と経歴 月岡雪鼎は、近江国蒲生郡日野大谷村(現在の滋賀県日野町大谷)に生まれました。本名は木田昌信、通称は丹下、号は信天翁(しんてんおう)などを用いていました。「月岡」の雅号は、故郷の「月岡山」という丘に由来するとされています 。 父は医師であり、雪鼎も一度は家業を継ぎましたが、病弱のため医業を断念し、絵師の道を選びました。同郷の高田敬輔に師事し、本格的な日本画の技法を学びました。その後、当時美人画で人気を博していた西川祐信の画風に影響を受け、風俗画を描き始めました 。 1751年(宝暦元年)に大坂に移住し、1753年(宝暦3年)に処女作『絵本龍田山』の挿絵を手がけて高評価を得ました。以降、版本の挿絵を中心に活躍し、1765年(明和2年)には仁和寺に申請して法橋の僧位を得ました。1778年(安永7年)には法眼に推挙され、大坂の文人サロン「混沌詩社」の詩人や学者と交流を持ちました 。 作風と作品 月岡雪鼎は、肉筆美人画を得意とし、色白で鼻筋の通った瓜実顔に切れ長の目を持つ女性像を描きました。豊艶な美人の輪郭線に薄い墨と落ち着いた朱色を併用することで、色白の肌との調和を図っています。また、春画の名手としても知られ、天明の大火の際には、雪鼎の春画が火除けのお守りになると評判が広まり、値が十倍にもなったという逸話があります 。 彼の作品には、和漢の古典や故事に取材したものも多く、自ら漢詩や和歌を書き込むこともありました。また、魚類や鳥類の絵も得意とし、精緻な描写で知られています。 代表作と所蔵美術館 月岡雪鼎の代表作には以下のようなものがあります: 『衣通姫図』:東京国立博物館所蔵。美しさが衣を通して輝いていたと伝わる姫を描いた作品。 『筒井筒図』:東京国立博物館所蔵。『伊勢物語』の一節を題材にした作品。 『藻魚図』:ボストン美術館所蔵。藻の間を泳ぐ鯉を描いた作品。 『月次花鳥風俗図屛風』:ボストン美術館所蔵。1月から12月までの季節と王朝人物による風俗を描いた作品。 これらの作品は、東京国立博物館やボストン美術館など、国内外の主要な美術館に所蔵されています。 家族と弟子 月岡雪鼎の長男は月岡雪斎であり、次男は月岡雪渓です。また、門人には蔀関月、岡田玉山、墨江武禅、森周峰、桂宗信などがいます。一説には、明治時代に活躍した浮世絵師・月岡芳年は雪鼎の三男であり、雪斎の養子となったとも言われています 。 月岡雪鼎は、江戸時代中期から後期にかけて、大坂を拠点に活躍した浮世絵師であり、美人画や風俗画を中心に多彩な作品を残しました。彼の作品は、現在でも多くの美術館や博物館で鑑賞することができ、その芸術性の高さが評価されています。 |