亜欧堂田善あおうどうでんぜん

時代 江戸時代
カテゴリー 掛け軸,絵画、書画
作品種別 浮世絵
プロフィール 亜欧堂 田善(あおうどう でんぜん、寛延元年(1748年) - 文政5年5月7日(1822年6月25日))は、江戸時代後期の洋風画家、銅版画家。生れは陸奥国須賀川(現在の福島県須賀川市)。本名は永田善吉で、略して田善と称した。可大ともいった。亜欧堂田善は号で、「AEUDOO DENZENTO」と落款する。別号に亜欧陳人。

亜欧堂田善(あおうどう でんぜん、1748年〈寛延元年〉–1822年〈文政5年〉)は、江戸時代後期に活躍した洋風画家・銅版画家で、日本における西洋画法の先駆者の一人です。​本名は永田善吉(ながた ぜんきち)で、福島県須賀川市(旧陸奥国須賀川)に生まれました。​彼の作品は、精緻な技術と独自の視点で描かれ、現在も高く評価されています。​

生涯と画業の始まり
田善は、農具商を営む家に生まれ、幼少期から絵を好んで描いていました。​15歳の時には、須賀川の白山寺に絵馬「源頼義水請之図」を奉納しています。​その後、伊勢参りの際に画僧・月僊に師事し、絵の技術を磨きました。​47歳の時、白河藩主・松平定信に才能を認められ、江戸で銅版画技術を学ぶよう命じられました。​この時、定信から「亜欧堂」の号を授かり、以後「亜欧堂田善」と名乗るようになります。 ​

銅版画と西洋画法の習得
田善は、江戸で西洋の銅版画技術を学び、特に遠近法や陰影法などの西洋画法を取り入れた作品を制作しました。​彼の代表作には、日本初の銅版画による解剖図『医範提綱内象銅版図』や、幕府が初めて公刊した世界地図『新訂万国全図』などがあります。​また、江戸の名所を描いた『銅版画東都名所図』は、精緻な描写と独自の視点で高く評価されています。 ​

肉筆画と油彩画への挑戦
田善は、銅版画だけでなく、肉筆による油彩画にも取り組みました。​代表作の一つである『浅間山図屏風』は、江戸時代最大級の油彩画とされ、重要文化財に指定されています。​この作品では、西洋画法を用いながらも、日本の風景を独自の感性で描いており、田善の技術と芸術性の高さがうかがえます。 ​

後世への影響と評価
田善の技術と作品は、後の浮世絵師や洋風画家に大きな影響を与えました。​彼の弟子たちは、その技術を受け継ぎ、日本の近代絵画の発展に寄与しました。​また、彼の作品は現在でも多くの美術館で所蔵・展示されており、その芸術的価値は高く評価されています。 ​

近年の展覧会と研究
2023年には、千葉市美術館で「没後200年 亜欧堂田善 江戸の洋風画家・創造の軌跡」展が開催され、彼の銅版画や肉筆画、関連資料など約250点が展示されました。​この展覧会では、田善の画業を多角的に紹介し、その功績を再評価する機会となりました。 ​

亜欧堂田善は、日本における西洋画法の導入と発展に大きく貢献した画家であり、その作品は今なお多くの人々に感動を与えています。​彼の生涯と作品を通じて、江戸時代の文化と芸術の豊かさを感じることができます。