井上士朗いのうえしろう
時代 | 江戸時代 |
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カテゴリー | 掛け軸,絵画、書画 |
作品種別 | 墨蹟・書 |
プロフィール | 井上 士朗(いのうえ しろう)は江戸時代後期の俳人、医師。医師井上専庵として活躍する傍ら、加藤暁台門下で俳諧活動を行い、暁台の死後は名古屋の俳壇を主導した。 井上士朗(いのうえ しろう、1742年4月14日 – 1812年6月24日)は、江戸時代後期の俳人・医師であり、尾張国(現在の愛知県名古屋市)を拠点に活躍しました。俳号は「枇杷園」や「松翁」などを用い、医号は「専庵」、諱は「正春」と称しました。彼は、加藤暁台の高弟として俳諧活動を行い、暁台の死後は名古屋の俳壇を主導しました。 生涯と俳諧活動 井上士朗は、尾張国守山村(現在の名古屋市守山区)に生まれ、叔父で名古屋新町の医師・井上安清の養子となり、医師として活動しました。医業の傍ら、加藤暁台に入門し、俳諧活動を始めました。暁台の死後は、尾張俳壇の指導者的立場を強め、自らの俳号「枇杷園」を冠した句集を多数編纂しました。 彼の俳諧活動は、以下の三期に分けられます: 支朗時代:宝暦13年(1763年)、『蛙啼集』に初入選し、俳諧活動を開始しました。 士朗時代前期:安永3年(1774年)、京都で与謝蕪村と交流し、『幣ぶくろ』を編集しました。 士朗時代後期:寛政4年(1792年)、多度山に参詣し、『楽書日記』を著しました。また、享和元年(1801年)には江戸で鈴木道彦、夏目成美と交流し、『鶴芝集』を著しました。 医師としての活動 医師としての井上士朗は、名古屋城下で評判を得ていました。彼の医術は名古屋城下では有名で、ある時1万石を領するという藩の重臣が病に罹り、専庵が呼ばれた。治療に口を出さないことを確約した上で、熱湯を入れた塗盆に新鮮な馬糞から液を絞り出して与えた。患者が嘔吐すると、これを用いるには及ばないとして、別に薬を調合して与え、病勢が薄らいだという逸話があります。 俳諧作品と文化活動 井上士朗は、俳句だけでなく、書画にも才能を発揮しました。彼の作品には、以下のようなものがあります: 「よろずよや 山のうへより けふの月」:自画賛の掛軸作品。 「ひやひやと 朝顔の咲く 垣根かな」:句幅作品。 「花鳥や さしても竹は 緑なり」:色紙作品。 これらの作品は、現在も古書店や美術館で見ることができます。 門人と影響 井上士朗の門人には、鶴田卓池、中島秋挙、藤森素檗などがいます。彼らは、士朗の俳諧理念を受け継ぎ、各地で俳諧活動を展開しました。 墓所と記念碑 井上士朗の墓所は、名古屋市東区泉二丁目の照運寺にあります。彼の墓碑は、名古屋大空襲で被災しましたが、後に平和公園に再建されました。 井上士朗は、江戸時代後期の俳諧界において重要な役割を果たし、医師としても名声を得た人物です。彼の俳諧作品や書画は、現在も多くの人々に親しまれています。 |