近衛基煕このえもとひろ

時代 江戸時代
カテゴリー 掛け軸,絵画、書画
作品種別 墨蹟・書
プロフィール 近衞 基熙(このえ もとひろ)は、江戸時代前・中期の公卿。主に東山天皇(113代)と中御門天皇(114代)治世の朝廷においてその中枢となり、江戸幕府との関係改善に尽力した。五摂家筆頭の近衛家当主。

近衛基熙(このえ もとひろ、1648年4月28日 – 1722年10月13日)は、江戸時代前期から中期にかけて活躍した公卿であり、五摂家筆頭の近衛家第21代当主です。​官位は従一位・太政大臣にまで昇進し、関白や摂政を歴任しました。​また、後陽成天皇の男系三世子孫でもあります。 ​

生涯と経歴
近衛基熙は、関白・左大臣であった近衛尚嗣の長男として生まれました。​母は後水尾天皇の皇女である女二宮(常子内親王)です。​父の早世により、後水尾上皇の命で近衛家の後継者として迎えられ、上皇の保護下で育てられました。 ​

1654年(承応3年)に元服し、正五位下に叙せられ左近衛権少将となりました。​その後、順調に昇進を重ね、1655年(明暦元年)に従三位、1656年(明暦2年)に権中納言、1658年(万治元年)に権大納言となりました。​1664年(寛文4年)には後水尾上皇の皇女である常子内親王を正室に迎え、翌年には18歳で内大臣に任じられました。​その後も右大臣、左大臣と昇進を続け、1690年(元禄3年)には関白に就任しました。​1703年(元禄16年)には関白の職を鷹司兼熙に譲り、1722年(享保7年)に出家し、同年に74歳で亡くなりました。 ​

政治的役割と幕府との関係
近衛基熙は、東山天皇(113代)と中御門天皇(114代)の治世において朝廷の中枢を担い、江戸幕府との関係改善に尽力しました。​特に、幕府との協調を重視する姿勢を示し、朝幕関係の安定に寄与しました。 ​

1680年(延宝8年)に後水尾天皇が崩御し、霊元天皇が親政を開始した際、霊元天皇は親幕府派である近衛基熙を嫌い、1682年(天和2年)に一条兼輝を関白に任命しました。​しかし、1690年(元禄3年)に一条兼輝が辞任したため、近衛基熙が関白に就任しました。 ​

文化活動と書の業績
近衛基熙は、政治家としてだけでなく、文化人としても高い評価を受けています。​和歌や漢詩に優れ、多くの作品を残しました。​また、書の名手としても知られ、彼の筆による和歌短冊や漢詩文の掛軸が現存しています。​これらの作品は、当時の公家文化や書道の水準を知る上で貴重な資料となっています。​

家族と子孫
近衛基熙の正室は、後水尾天皇の皇女である常子内親王です。​彼らの間には、近衛家熙(後の関白)や大炊御門信名などの子が生まれました。​また、娘の一人は天英院と称され、他の娘は近衛脩子と呼ばれました。​近衛基熙の子孫は、江戸時代を通じて公家社会で重要な地位を占め続けました。 ​

近衛基熙は、江戸時代前期から中期にかけての朝廷と幕府の関係において重要な役割を果たし、文化面でも多大な貢献をした人物です。​その生涯は、政治的な駆け引きや文化活動を通じて、日本の近世史における重要な一章を形成しています。​