中山愛親なかやまなるちか
時代 | 江戸時代 |
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カテゴリー | 掛け軸,絵画、書画 |
作品種別 | 墨蹟・書 |
プロフィール | 中山 愛親(なかやま なるちか)は、江戸時代後期の公家。 宝暦11年(1761年)参議に任命され、安永3年(1774年)権大納言に至る。天明2年(1782年)議奏となり、光格天皇に近侍した。天皇の父閑院宮典仁親王に対し太上天皇号を宣下することに腐心したが、幕府はこれを認めず事態は紛糾した(いわゆる「尊号一件」)。寛政5年(1792年)幕府の命により武家伝奏正親町公明とともに江戸に喚問され、老中松平定信と対談釈明したが、閉門を命じられた。帰洛したのち蟄居し、議奏を罷免された。 明治時代に入り、明治17年(1884年)従一位が贈られている。 尊号一件で愛親が勅使として江戸に下った際に、江戸城の将軍徳川家斉の前で堂々たる抗議をしたという伝説が生まれ、これを元に『中山東下記』『中山伝記』といった小説(共に事件よりあまり隔たらない時期の成立と見られる)が密かに書かれている。またこの経過に触れている漫画として、みなもと太郎の『風雲児たち』がある。 中山愛親(なかやま なるちか、1741年7月7日 - 1814年10月1日)は、江戸時代後期の公卿であり、朝廷と幕府の関係において重要な役割を果たした人物です。彼は中山家の21代当主で、官位は正二位・権大納言、死後に従一位が贈られました。 生涯と経歴 中山愛親は、正親町実連の子として生まれ、後に中山栄親の養子となりました。1761年に参議に任命され、1774年には権大納言に昇進しました。1782年には議奏に任じられ、光格天皇に近侍するようになります。この時期、彼は天皇の意向を受けて幕府との交渉にあたるなど、朝廷内で重要な役割を担いました。 尊号一件と幕府との対立 中山愛親の名が広く知られるようになったのは、「尊号一件」と呼ばれる事件によるものです。光格天皇が実父・閑院宮典仁親王に太上天皇の尊号を贈ろうとした際、愛親はその先例を調査し、尊号宣下に賛意を示しました。しかし、老中・松平定信ら幕府の強硬な反対に遭い、最終的に尊号宣下は中止されました。その後、愛親は幕府に召喚され、100日の閉門処分を受け、議奏を罷免されました。 文学作品と後世の評価 尊号一件における愛親の行動は、後に『反汗秘録』『中山東下記』『中山伝記』などの実録体小説として描かれました。これらの作品は、愛親が幕府に対して毅然とした態度を取ったことを称賛する内容であり、当時の人々に広く読まれました。また、彼の孫娘である中山慶子は孝明天皇の典侍となり、明治天皇を産んだことから、愛親は明治天皇の曾祖父にあたります。 墓所と記念碑 中山愛親の墓所は、京都市上京区の廬山寺にあります。また、彼の功績を称える「中山愛親表彰碑」が京都市によって建立されています。 中山愛親は、江戸時代後期の朝廷と幕府の関係において重要な役割を果たした公卿であり、彼の行動は後世に多くの影響を与えました。その生涯は、政治的な駆け引きや家族の歴史を通じて、日本の近世史における重要な一章を形成しています。 |