鯉屋杉風こいやさんぷう

時代 江戸時代
カテゴリー 掛け軸,絵画、書画
作品種別 墨蹟・書
プロフィール 江戸中期の俳人。鯉屋は屋号、姓は杉山、採茶庵・五雲亭等の号がある。芭蕉の門下で、その後援者として知られる。享保17年(1732)歿、86才。


「鯉屋杉風」とは、江戸時代前期から中期にかけて活躍した俳人・杉山杉風(すぎやま さんぷう)の通称です。​彼は松尾芭蕉の高弟として知られ、蕉門十哲の一人に数えられています。​また、芭蕉の活動を経済的に支えた重要な人物でもありました。​


生涯と背景
杉山杉風は1647年(正保4年)、江戸・日本橋本小田原町に生まれました。​通称は藤左衛門または市兵衛で、屋号を「鯉屋」と称し、幕府御用達の魚問屋を営んでいました。​父・杉山賢永(俳号:仙風)も俳諧を嗜み、杉風はその影響を受けて俳諧の道に進みました。​

芭蕉が江戸に出た際、杉風の家に寄寓したとされ、深川の芭蕉庵も杉風が所有する別荘を提供したものです。​このように、杉風は芭蕉の最古参の門人であり、経済的・精神的に芭蕉を支え続けました。 ​


俳諧活動と作品
杉風は、延宝8年(1680年)に刊行された『桃青門弟独吟二十歌仙』で巻頭を務め、江戸蕉門の中心人物として活躍しました。​また、自らの句を集めた『常盤屋句合』を編纂し、芭蕉の判を得て公にしました。​

元禄期に入ると、芭蕉が提唱した「かるみ」の俳風を受け入れ、元禄7年(1694年)には深川で開催された芭蕉の送別俳席に参加し、『別座鋪』の編集にも関与しました。​このように、杉風は芭蕉の俳諧理念に深く共鳴し、その普及に努めました。 ​


採荼庵と芭蕉庵
杉風は、自宅の別荘を「採荼庵(さいだあん)」と名付け、芭蕉に提供しました。​この庵は、芭蕉が『おくのほそ道』の旅に出る際の出発点となり、蕉門の拠点としても機能しました。​また、芭蕉庵の再建にも尽力し、芭蕉の隠棲生活を支えました。 ​


晩年と評価
杉風は1732年(享保17年)に86歳で没しました。​墓所は東京都世田谷区の成勝寺にあり、墓碑には「芭蕉翁の高足にして東三十三国の俳諧奉行と称せられる」と刻まれています。 ​

彼の代表句には以下のようなものがあります:​

がつくりと抜け初むる歯や秋の風​

これらの句からも、杉風の俳諧に対する真摯な姿勢と、芭蕉の理念を受け継いだ作風がうかがえます。​

杉風の生涯は、俳諧のみならず、芭蕉との深い絆や江戸時代の文化的背景を知る上でも貴重なものです。​彼の活動を通じて、蕉風俳諧の発展と江戸文化の一端を垣間見ることができます。​