森田節斎もりたせっさい

時代 江戸時代
カテゴリー 掛け軸,絵画、書画
作品種別 墨蹟・書
プロフィール 幕末・明治の儒者・志士。大和五条生。名は益、字は謙蔵、別号に節翁。上京し猪飼敬所・頼山陽に学び、江戸の昌平黌に入る。のち京都に塾を開き、吉田松陰・乾十郎ら尊攘派志士を輩出した。慶応4年(1868)歿、58才。


森田節斎(もりた せっさい、1811年〈文化8年〉–1868年〈慶応4年〉)は、幕末の儒学者・思想家・教育者であり、尊王攘夷運動において重要な役割を果たした人物です。​彼の思想と教育は、吉田松陰や久坂玄瑞など、多くの勤王志士たちに影響を与えました。​


生涯と学問的背景

森田節斎は、大和国五條(現在の奈良県五條市)で医師・森田文庵の子として生まれました。​幼少期に父と兄を相次いで亡くし、母の手で育てられました。​京都で猪飼敬所や頼山陽に師事し、詩文の才能を開花させました。​その後、江戸の昌平黌(昌平坂学問所)で学び、安井息軒や塩谷宕陰らと交友を深めました。​


教育活動と尊王攘夷運動

節斎は、京都や備中倉敷で私塾を開き、尊王攘夷の思想を広めました。​彼の門下からは、吉田松陰、久坂玄瑞、原田亀太郎など、多くの尊攘志士が輩出されました。​また、梅田雲浜や頼三樹三郎、宮部鼎蔵らとも親交を結び、尊王攘夷運動の中心的存在となりました。​


晩年と死

幕府からの追及を受けた節斎は、紀伊国那賀郡(現在の和歌山県紀の川市)に身を隠し、山外節翁や五域愚庵と号しました。​1868年、六角獄舎で毒を盛られて死亡したとされています。​


著作と文化的遺産

『節斎遺稿』:​節斎の詩文を集めた遺稿集で、彼の思想や文学的才能を知る上で貴重な資料です。
書画作品:​節斎の書や絵画は、現在もオークションなどで取引されており、その芸術的価値が評価されています。​

顕彰と記念碑

教善寺(岡山県倉敷市):​節斎が娘・阿孟を葬った寺で、彼の招魂碑が建立されています。
極楽寺霊園(奈良県五條市):​節斎の父・文庵の墓があり、節斎自身の顕彰碑も建てられています。​

森田節斎は、幕末の思想界において重要な位置を占める人物であり、その教育と思想は明治維新の原動力となった尊王攘夷運動に大きな影響を与えました。​彼の遺した著作や書画作品は、現在も研究・鑑賞の対象となっています。