雨森芳洲あめのもりほうしゅう

時代 江戸時代
カテゴリー 掛け軸,絵画、書画
作品種別 墨蹟・書
プロフィール 雨森 芳洲(あめのもり ほうしゅう、寛文8年5月17日(1668年6月26日) - 宝暦5年1月6日(1755年2月16日))は、江戸時代中期の儒者。諱は俊良、のち誠清(のぶきよ)、通称は藤五郎・東五郎、号は芳洲、字を伯陽、漢名として雨森東を名乗った。中国語、朝鮮語に通じ、対馬藩に仕えて李氏朝鮮との通好実務にも携わった。[1]新井白石・室鳩巣ともに木下門下の五先生や十哲の1人に数えられた。

雨森芳洲(あめのもり ほうしゅう、1668年6月26日〈寛文8年5月17日〉– 1755年2月16日〈宝暦5年1月6日〉)は、江戸時代中期の儒学者・外交官であり、特に朝鮮との「誠信外交」を実践したことで知られています。​

生涯と学問的背景
近江国伊香郡雨森村(現在の滋賀県長浜市高月町雨森)に医師の子として生まれました。​幼少期は医師を志し、京都で医学を学びましたが、17歳で江戸に出て、朱子学者・木下順庵の門下となりました。​同門には新井白石、室鳩巣、祇園南海らがいました。​

22歳のとき、師の推挙により対馬藩に儒者として仕官し、朝鮮との外交実務を担当することとなりました。​31歳からは釜山の草梁倭館に滞在し、朝鮮語を習得。​「ことばを知らで如何に善隣ぞや」と語り、言語の重要性を強調しました。​

誠信外交と著作
雨森芳洲は、朝鮮通信使の来日に際し、真文役(記録係)として江戸に随行し、日朝外交の実務に携わりました。​彼は「互いに欺かず、争わず、真実をもって交わる」ことを重視し、これを「誠信」と称しました。​この理念は、著書『交隣提醒』に詳述されています。​

また、通訳の重要性を認識し、その待遇改善と育成にも尽力しました。​彼の外交理念は、現代の国際関係においても参考とされています。​

晩年と文化活動
芳洲は晩年、和歌や漢詩の創作にも励みました。​81歳から和歌を学び始め、『古今和歌集』を千回読み、和歌1万首を詠むなど、向学心を持ち続けました。​著作には『朝鮮風俗考』『芳洲詠草』『たはれ草』『橘窓茶話』などがあります。​

現代における評価
雨森芳洲の外交理念は、現代においても評価されています。​彼の生誕地である滋賀県長浜市には「雨森芳洲庵」があり、遺品や著書が展示されています。​また、彼の業績はユネスコの「世界の記憶」にも登録されています。​

近年では、日韓の交流イベントや展示会などで彼の思想が紹介され、国際理解の重要性が再認識されています。​

雨森芳洲は、言語と文化の理解を基盤とした誠信外交を実践し、日朝関係の発展に寄与しました。​その理念は、現代の国際社会においても重要な指針となっています。