橘守部たちばなもりべ
時代 | 江戸時代 |
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カテゴリー | 掛け軸,絵画、書画 |
作品種別 | 墨蹟・書 |
プロフィール | 橘 守部(たちばな もりべ、天明元年4月8日(1781年5月1日) - 嘉永2年5月24日(1849年7月13日))は、江戸時代後期の国学者。伊勢国朝明郡小向村(現在の三重県朝日町)の庄屋の家に生まれた。通称は飯田元輔・源助。号は池庵・椎本・生薬園など。 父の飯田元親は国学者谷川士清の門人であったが、守部自身はほとんど独学で国学を研究し、本居宣長を痛烈に批判し、『古事記』よりも『日本書紀』を重んじた。神話の伝説的な部分と史実の部分の区分の必要性を説いた。晩年は江戸に住んで肥前国平戸藩主松浦氏の知遇を得た。また晩年、死後安心論にも関心を寄せた。守部独自の国学の説は、武蔵国北部から上野国にかけて普及し機業家などに門人を広げた。 著書に『神風問答』『伊勢物語箋』『待門雑記』『山彦冊子』『稜威道別』『稜威言別』『神代直語』『難古事記伝』『湖月抄別記』などがある。 橘守部(たちばな もりべ、1781年5月1日〈天明元年4月8日〉– 1849年7月13日〈嘉永2年5月24日〉)は、江戸時代後期の国学者であり、平田篤胤・伴信友・香川景樹とともに「天保の国学四大家」の一人に数えられています。彼は独自の学問体系を築き、特に『日本書紀』を重視する姿勢で知られています。 生涯と学問の歩み 橘守部は、伊勢国朝明郡小向村(現在の三重県三重郡朝日町小向)で、庄屋の家に生まれました。幼名は旭敬、のちに吉弥、元服後は元輔と称しました。父の飯田元親は国学者・谷川士清の門人であり、その影響を受けて守部も国学の道を志しました。 17歳で江戸に出て、独学で国学を学びました。29歳のときに武蔵国幸手(現在の埼玉県幸手市)に移住し、約20年間をこの地で過ごしました。この間、守部は多くの門人を育て、地域における国学の普及に努めました。文政12年(1829年)に再び江戸に戻り、晩年を過ごしました。 学問的特徴と主張 橘守部の学問は、合理性や実証を重視する姿勢が特徴です。彼は本居宣長の『古事記』重視の立場を批判し、『日本書紀』をより重視しました。また、神話の伝説的部分と史実の部分を明確に区別する必要性を説きました。このような独自の学説は、武蔵国北部から上野国にかけて広く普及し、多くの門人を育てました。 主な著作と業績 橘守部は、多くの著作を残しています。代表的なものには、『稜威道別(いつのちわき)』『稜威言別(いつのことわき)』『難古事記伝』『助辞本義一覧』『短歌撰格』『長歌撰格』『文章撰格』などがあります。これらの著作は、古典の解釈や和歌の研究において独自の視点を提供し、国学の発展に寄与しました。 晩年と顕彰 橘守部は、1849年に江戸で亡くなり、墨田区向島の長命寺に葬られました。その墓碑は現在、墨田区の登録文化財に指定されています。また、1928年には正五位を追贈されました。 彼の生誕地である三重県朝日町小向には、「橘守部誕生地遺跡」があり、三重県の史跡に指定されています。また、埼玉県幸手市の県立幸手桜高校内には「橘守部翁遺蹟碑」が建立されており、地域における彼の功績が顕彰されています。 橘守部は、独自の学問体系と実証的な研究姿勢で、江戸時代後期の国学に新たな視点をもたらしました。彼の業績は、現在も国学研究や日本古典文学の分野で高く評価されています。 |