佐川田昌俊さがわだまさとし
時代 | 江戸時代 |
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カテゴリー | 掛け軸,絵画、書画 |
作品種別 | 墨蹟・書 |
プロフィール | 佐川田 昌俊(さがわだ まさとし)は、山城淀藩の家老。永井氏の家臣。 下野の出身で、はじめ上杉景勝に仕えた。このときに上杉家の家臣である木戸玄斎の養子となっている。いつ上杉家を離れたかは不明だが、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは西軍に属し大津城の戦いに参加、先登して負傷している。戦後は浪人していたが、徳川家の家臣である永井直勝に見出されて永井家に身を寄せた。しかしこの時はなぜか無禄。が大坂の役では永井軍の大将として参加した。元和2年(1616年)に直勝と共に江戸に移った。 直勝の死後は直勝の嫡男尚政に仕えた。尚政には寵愛され、家老として実質的に藩政を主導した。寛永10年には藩の転封に従って山城淀に居を移している。有名な「淀の水車」を設け淀城内に給水したのも彼のアイデアという。寛永15年(1638年)に病を得たため子の俊輔に家督を譲って隠居、洛南一休寺の傍らに庵を構えて黙々と号した。伝記には「禅に参じ、山水を翫び、意を方外に遊ばしむ」とある。寛永20年(1643年)8月3日に死去。享年65。墓は一休寺の一角に在り、林羅山撰の大きな碑の横に立つ自然石の墓石には「是何麼(これなんぞや)」とだけ刻んである。 智勇兼備の名士で、茶道を小堀遠州に学び、連歌は里村昌琢、書は松花堂昭乗、漢学は林羅山に習ったといい、歌道にも優れた。その他の友人・知己に石川丈山、近衛信尋、木下長嘯子などがいる。東国に在ったころある人が昌琢に「連歌の第一人者はだれか」と問うたところ「西におのれ(昌琢)あり、東に昌俊あり」と答えたという。石川丈山、松花堂昭乗とともに一休寺方丈の庭園の作庭に携わったとの伝えもある。集外三十六歌仙の一人で、その秀歌撰にも撰ばれた よし野山はなまつ頃の朝な朝な心にかかるみねのしら雲 の歌で名高い。著書に『松花堂上人行状記』などがある。 藩政においても、藩士が財政的に困窮して苦しんでいたとき、尚政に無断で藩の金蔵を開いて救済を行なって助けた、などの逸話が存在する。昌俊の子孫は永井家の重代家老として存続した。 佐川田昌俊(さがわだ まさとし、1579年〈天正7年〉– 1643年〈寛永20年〉)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけて活躍した武将・歌人・茶人・書家であり、山城国淀藩の家老としても知られています。 生涯と経歴 佐川田昌俊は、下野国(現在の栃木県)早川田村に生まれ、本姓は高階氏、通称は喜六。号は黙々、壺斎、不二山人などを用いました。初めは上杉景勝に仕え、家臣の木戸玄斎の養子となりました。関ヶ原の戦いでは西軍に属し、大津城の戦いで負傷。戦後は浪人となりましたが、永井直勝に見出され、永井家に仕えることとなりました。直勝の死後は嫡男・尚政に仕え、家老として藩政を主導しました。淀藩転封後は、淀城内に給水する「淀の水車」を設けるなどの功績を残しました。 文化人としての活動 佐川田昌俊は、茶道を小堀遠州に、連歌を里村昌琢に、書を松花堂昭乗に、漢学を林羅山に、和歌を飛鳥井雅庸・近衛信尋に学びました。また、石川丈山や木下長嘯子とも親交があり、寛永文化を代表する文人の一人とされています。 和歌と著作 佐川田昌俊の代表的な和歌に、 吉野山花咲くころの朝な朝な心にかかる峰の白雲 があります。この歌は「集外三十六歌仙」にも選ばれ、後西天皇(後水尾天皇)にも賞賛されました。また、著作に『松花堂上人行状記』などがあります。 晩年と死去 寛永15年(1638年)、病を得て子・俊輔に家督を譲り、洛南の一休寺の傍らに庵を構えて隠居し、黙々と号しました。寛永20年(1643年)8月3日、65歳で死去。墓は一休寺の一角にあり、林羅山撰の碑の横に立つ自然石の墓石には「是何麼(これなんぞや)」と刻まれています。 佐川田昌俊は、武将としての実績のみならず、文化人としても多方面で活躍し、江戸時代初期の文化に大きな影響を与えました。その多才な人物像は、現在も多くの研究者によって注目されています。 |