香川景樹かがわかげき
時代 | 江戸時代 |
---|---|
カテゴリー | 掛け軸,絵画、書画 |
作品種別 | 墨蹟・書 |
プロフィール | 香川 景樹(かがわ かげき、明和5年4月10日(1768年5月25日)- 天保14年3月27日(1843年4月26日))は、江戸時代後期の歌人。父は鳥取藩藩士荒井小三次。初名は、純徳・景徳。通称は銀之助・真十郎・式部・長門介。号は桂園(けいえん)・東塢亭(とううてい)・梅月堂・観鶩亭(かんぼくてい)・臨淵社・万水楼・一月楼。出仕した徳大寺家では「景樹」を「かげしげ」と呼んでいたが、景樹自身は自身の署名で「かげき」の読みを使っており、こちらの呼称が一般に通用している。 香川景樹(かがわ かげき、1768年5月25日 – 1843年4月26日)は、江戸時代後期を代表する歌人であり、和歌革新運動「桂園派(けいえんは)」の創始者として知られています。 生涯と背景 景樹は因幡国(現在の鳥取県)で、鳥取藩士・荒井小三次の次男として生まれました。幼少期から文学に親しみ、7歳で和歌を学び始めたと伝えられています。26歳の時、和歌修行のために京都へ上り、二条派の歌人・香川景柄の養子となり、名を景徳、のちに景樹と改めました。その後、徳大寺家に出仕し、歌人としての地位を確立しました。 歌論と「調べの説」 景樹は、和歌における「調べ(しらべ)」、すなわち音律やリズムを重視する「調べの説」を提唱しました。彼は「歌はことわるものにあらず、調ぶるものなり」と述べ、歌の内容よりも調和の取れた音の流れを重視しました。この考え方は、当時の和歌界に新風を吹き込み、桂園派の基礎となりました。 主要な著作と作品 景樹の代表的な著作には以下のものがあります: 『新学異見』(1811年):賀茂真淵の『新学』を批判し、自身の歌論を展開した書。 『百首異見』(1823年):和歌百首に対する注釈書。 『桂園一枝』(1830年):自撰の歌集で、桂園派の歌風を示す作品。 『古今和歌集正義』(1835年):『古今和歌集』の注釈書。 また、紀行文『中空の日記』では、文政元年(1818年)の東海道旅行の様子が記されています。三島宿で詠んだ歌には、旅の情景や感慨が表現されています。 桂園派とその影響 景樹が創始した桂園派は、彼の歌論と歌風を基に発展し、多くの門人を輩出しました。その中には「桂園の四天王」と称された熊谷直好・木下幸文・菅沼斐雄・高橋残夢などがいます。桂園派の影響は幕末から明治期にかけて広がり、御歌所和歌の主流となりました。 評価と遺産 景樹の歌風は「清新」と評され、第一印象を大切にした表現が特徴です。彼の歌には、鋭さや才気が感じられ、当時の和歌界に新たな視点をもたらしました。一方で、正岡子規などからは批判も受けましたが、その影響力は明治以降も続きました。 香川景樹の和歌や書は、現在も掛け軸や古書として残されており、彼の芸術性を感じることができます。また、彼の歌論や歌集は、和歌研究において重要な資料となっています。 香川景樹の詳細な研究や作品に興味がある場合は、以下の書籍が参考になります: 『香川景樹論』山本嘉将(1942年) 『香川景樹の研究』黒岩一郎(1957年) 『人物叢書 香川景樹』兼清正徳(1973年) 香川景樹の生涯と業績は、江戸時代後期の和歌の発展に大きく寄与しました。彼の提唱した「調べの説」や桂園派の活動は、和歌の表現に新たな可能性を示し、後世に多大な影響を与えました。 |