大槻磐水おおつきばんすい

時代 江戸時代
カテゴリー 掛け軸,絵画、書画
作品種別 墨蹟・書
プロフィール 大槻 玄沢(おおつき げんたく、宝暦7年9月28日(1757年11月9日)- 文政10年3月30日(1827年4月25日))は、一関藩出身の江戸時代後期の蘭学者。諱は茂質(しげかた)、字は子煥(しかん)。出身地の磐井から磐水(ばんすい)と号す。『解体新書』の翻訳で有名な杉田玄白・前野良沢の弟子。「玄沢」とは、師である2人から一文字ずつもらってつけた通り名である。

大槻磐渓(おおつき ばんけい、1801年6月25日 – 1878年6月13日)は、江戸時代後期から明治時代初期にかけて活躍した儒学者・漢学者・文章家です。​父は蘭学者の大槻玄沢、子は国語学者の大槻文彦であり、三代にわたって学問の世界で顕著な業績を残した「大槻三賢人」として知られています。​

基本情報
諱(いみな):​清崇(きよたか)
字(あざな):​士広(しこう)
号:​磐渓(ばんけい)
幼名:六二郎
生誕地:​江戸木挽町(現在の東京都中央区)
没地:東京
墓所:​東京都港区の東禅寺​
学問と教育活動
磐渓は17歳で幕府直轄の学問所「昌平黌(しょうへいこう)」に入学し、11年間にわたり学問を修めました。​その後、東海、畿内、長崎などを遊学し、高名な学者たちと交流を深めました。​遊学中に出会った思想家・文人の頼山陽は、磐渓の漢文を見て「後来有望なり」と高く評価したと伝えられています。​

また、時勢を鑑みて西洋砲術を学び、佐久間象山が西洋式カノン砲を試し撃ちした際にはその手助けも行いました。​この頃から開国論を唱えるようになり、ペリー来航時には藩命で浦賀へ出張し黒船を見学しています。​

その後、仙台藩の藩校「義賢堂」の学頭となり、藩内でも大きな発言力を持つようになりました。​

主な著作と業績
『献芹微衷(けんきんびちゅう)』:​開国論をまとめた著作で、幕末の国政に対する提言を含んでいます。
『近古史談』:​戦国大名の論評をまとめた歴史書で、明治29年に大槻氏蔵版として刊行されました。
『愛古堂漫稿』:​明治7年に刊行された漢詩文集で、銅版画による肖像画なども収録されています。
『西遊紀程』:​天保2年に序文が書かれた紀行文で、江戸時代の和本として知られています。​

戊辰戦争とその後
戊辰戦争では、奥羽越列藩同盟の結成に奔走し、戦後は戦犯として謹慎・幽閉されました。​のちに許され、東京で静かに余生を送りました。​

大槻三賢人
磐渓の父・大槻玄沢は蘭学者として知られ、磐渓自身は儒学者・漢学者として、またその子・大槻文彦は日本初の近代的国語辞書『言海』を完成させた国語学者として、それぞれの分野で顕著な業績を残しました。​この三代にわたる学問の系譜は、「大槻三賢人」として称えられています。​

大槻磐渓は、江戸時代後期から明治時代初期にかけて、学問・教育・政治の各分野で多大な貢献を果たした人物です。​その業績は、現在も日本の学術史や教育史において重要な位置を占めています。