上田秋成うえだあきなり
時代 | 江戸時代 |
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カテゴリー | 掛け軸,絵画、書画 |
作品種別 | 墨蹟・書 |
プロフィール | 上田 秋成(うえだ あきなり、享保19年6月25日(1734年7月25日) - 文化6年6月27日(1809年8月8日))は、江戸時代後期の読本作者、歌人、茶人、国学者、俳人。怪異小説「雨月物語」の作者として特に知られる。 上田秋成(うえだ あきなり、1734年7月25日〈享保19年6月25日〉–1809年8月8日〈文化6年6月27日〉)は、江戸時代後期の文人であり、小説家、歌人、国学者、俳人、茶人として多彩な才能を発揮しました。特に怪異小説『雨月物語』の作者として広く知られています。 生涯と背景 秋成は大坂・曽根崎新地で生まれ、幼名を仙次郎、通称を東作といいました。父は不詳で、母は大和国樋野村(現在の奈良県御所市)出身の女性とされています。4歳のとき、紙油商を営む上田茂助の養子となりました。5歳で天然痘に罹患し、命は取り留めたものの、両手の指に後遺症が残りました。この病気の際、養父が加島稲荷神社に祈願し、「68歳まで生きられるだろう」というお告げを受けたと伝えられています。 青年期には俳諧に傾倒し、懐徳堂に通って五井蘭洲の影響を受け、国学にも興味を持ちました。また、医術にも通じ、医師として生計を立てた時期もありました。 主な作品と文学的特徴 『雨月物語』(1776年) 秋成の代表作であり、日本・中国の古典を題材とした怪異小説9篇から成る読本です。人間の執念や情念を描き、幻想的かつ悲哀に満ちた物語が特徴です。「浅茅が宿」「蛇性の婬」などが特に有名で、後に映画化もされました。 『春雨物語』(1808年) 晩年の作品で、刊行されることなく写本で伝えられました。人間の運命の不可思議をテーマにした物語が収められています。 『諸道聴耳世間狙』(1766年) 初期の浮世草子で、庶民の生活や風俗を描いた作品です。秋成の観察眼とユーモアが光ります。 多彩な活動と思想 秋成は小説だけでなく、和歌、俳諧、国学、煎茶など多方面で才能を発揮しました。彼の文学は、単なる娯楽ではなく、深い人間理解と哲学的思索に裏打ちされています。また、本居宣長との思想的対立も知られており、古典の解釈や国学の在り方について独自の見解を持っていました。 晩年と死 晩年には両眼を失明するなどの困難に見舞われましたが、創作活動を続けました。1809年、門人の羽倉信美の宅邸で亡くなり、京都市左京区の西福寺に葬られました。享年75歳でした。 影響と評価 秋成の作品は、後の日本文学に大きな影響を与えました。特に『雨月物語』は、近世日本文学の代表作とされ、高等学校の古文の教科書にも採用されています。また、彼の多才な活動は、江戸時代の文人の典型として評価されています。 上田秋成は、江戸時代後期の文学において、独自の視点と深い人間理解を持つ作家として、現在も高く評価されています。彼の作品は、現代においても多くの読者に読み継がれています。 |