向井去来むらいきょらい

時代 江戸時代
カテゴリー 掛け軸,絵画、書画
作品種別 墨蹟・書
プロフィール 向井去来(むかい きょらい 慶安4年(1651年) - 宝永元年9月10日(1704年10月8日)))は、江戸時代前期の俳諧師。蕉門十哲の一人。儒医向井元升の二男として肥前国(今の長崎市興善町)に生まれる。堂上家に仕え武芸に優れていたが、若くして武士の身分をすてた。京都嵯峨野の落柿舎(らくししゃ)に住み、松尾芭蕉はここで『嵯峨日記』を執筆した。野沢凡兆と共に、蕉風の代表句集「猿蓑」を編纂した。「西国三十三ヶ国の俳諧奉行」とあだ名された。

向井去来(むかい きょらい、1651年 – 1704年)は、江戸時代前期の俳人であり、松尾芭蕉の高弟として「蕉門十哲」の一人に数えられます。​その誠実で温厚な人柄から「西国三十三ヶ国の俳諧奉行」とも称され、芭蕉の俳諧理念の継承と発展に大きく貢献しました。​

生涯と人物像

出生と家族:​肥前国長崎(現在の長崎市興善町)に、儒医・向井元升の次男として生まれました。​8歳で京都に移り、武芸や儒学を学びました。​一時は堂上家に仕官しましたが、24〜25歳頃に辞職し、以後は他家に仕えることはありませんでした。 ​

俳諧との出会い:​貞享元年(1684年)、宝井其角との出会いをきっかけに俳諧の道へ進み、貞享3年(1687年)に江戸で芭蕉と対面し、深い親交を結びました。 ​

落柿舎:​京都嵯峨野に草庵「落柿舎(らくししゃ)」を構え、芭蕉もここを訪れて『嵯峨日記』を執筆しました。​落柿舎の名は、一夜の風雨で柿がすべて落ちたことに由来します。 ​

晩年と死:​晩年には芭蕉の俳論をまとめた『去来抄』の草稿を残し、宝永元年(1704年)に京都で没しました。​墓所は落柿舎の裏手にあります。 ​

主な著作と俳論

『去来抄』
『去来抄』は、芭蕉からの伝聞や蕉門での論議、俳諧の心構えなどをまとめた俳諧論書で、去来の没後約70年後の1775年に刊行されました。​内容は「先師評」「同門評」「修行教」などに分かれ、蕉風の本質や付合の技法など多方面にわたる問題を取り上げています。 ​

その他の著作
『旅寝論』:​旅中の心得や俳諧の精神を論じた随筆。​
『伊勢紀行』:​伊勢参宮の旅を綴った紀行文。​
『猿蓑』:​元禄4年(1691年)、野沢凡兆と共に編集した蕉風の代表句集。​芭蕉の指導のもと、蕉門の作品を集めたものです。 ​

代表的な句

「岩鼻やここにも一人月の客」​

この句について、去来は「明月に乗じ山野を吟歩していたところ、岩頭にもう一人の風流人を見つけた」と述べています。​しかし、芭蕉は「ここにも一人の月の客と、己と名乗り出る方が風流である」と評し、自称の句とすることを勧めました。​このやり取りは、俳諧における自己表現と他者描写の違いを示す興味深い例です。 ​

「秋風や白木の弓に弦はらん」​

「湖の水まさりけり五月雨」​

「をととひはあの山越つ花盛り」​

「尾頭のこころもとなき海鼠哉」​

「螢火や吹とばされて鳰の闇」​

「鳶の羽も刷ぬはつしぐれ」​

「応々といへど敲くや雪の門」​


向井去来は、誠実で温厚な性格から多くの俳人に親しまれました。​芭蕉からも信頼され、「西国三十三ヶ国の俳諧奉行」と称されるほど、西日本の蕉門を束ねる存在でした。​その高潔な人柄と俳諧への真摯な姿勢は、後世の俳人たちにも大きな影響を与えました。 ​