市河寛斎いちかわかんさい

時代 江戸時代
カテゴリー 掛け軸,絵画、書画
作品種別 墨蹟・書
プロフィール 市河 寛斎(いちかわ かんさい、寛延2年(1749年) - 文政3年7月10日(1820年8月18日))は、江戸時代の儒学者で漢詩人。

市河寛斎(いちかわ かんさい、1749年6月16日〈寛延2年〉–1820年7月10日〈文政3年〉)は、江戸時代中期から後期にかけて活躍した儒学者・漢詩人です。​名は世寧(せいねい)、字は子静、号は寛斎・半江・江湖詩老などを用いました。​彼は詩風の革新を目指し、多くの門人を育て、日本漢詩の発展に大きく寄与しました。​

生涯と学問的背景

市河寛斎は、上野国甘楽郡(現在の群馬県)に生まれました。​父・山瀬好謙は館林藩に仕えており、寛斎も当初は山瀬新平と名乗り、館林藩に仕官していました。​しかし、1775年(安永4年)に脱藩し、江戸に出て林家に入門。​1783年(天明3年)には昌平坂学問所の学頭に就任しましたが、1787年(天明7年)に病を理由に辞職しました。​


その後、1787年に「江湖詩社」を結成し、大窪詩仏や柏木如亭、菊池五山などを指導しました。​彼らとともに、日常的な素材や詩情に富む宋詩の影響を受けた新しい詩風を確立しました。​この詩風は、江戸時代の漢詩に新たな方向性を示しました。​

1790年(寛政2年)には、幕府が朱子学以外の学問を禁じた「寛政異学の禁」に反対したため、昌平坂学問所を追われました。​その後、富山藩の藩校・広徳館の教授を務め、1811年(文化8年)に致仕しました。​晩年には、掛川藩世子の侍講や長崎奉行・牧野成傑の招きで長崎に滞在するなど、各地で教育活動を行いました。​

主な著作と詩風

市河寛斎は、多くの著作を残しています。​代表的なものには、以下のようなものがあります。​

『詩家法語』:詩作の方法や心得をまとめた書。​

『日本詩紀』:奈良時代から平安時代末までの漢詩約3,800首を集めた詩集。​

『全唐詩逸』:『全唐詩』に漏れた詩を集めた補遺集。​

彼の詩風は、当初は古文辞派の格調高い詩風でしたが、江湖詩社の結成後は、白楽天や杜牧の詩風を取り入れ、晩年には陸游の詩風を尊びました。​これにより、写実的で情感豊かな詩風を確立し、江戸時代の漢詩に新たな方向性を示しました。​

門人と影響

市河寛斎は、多くの門人を育てました。​代表的な門人には、大窪詩仏、柏木如亭、菊池五山などがいます。​彼らとともに、江戸時代の漢詩の革新を推進し、「今四家」と称されました。​また、息子の市河米庵は、幕末の三筆の一人として知られ、書道の分野で大きな影響を与えました。​

晩年と顕彰

市河寛斎は、1820年(文政3年)に江戸で没しました。​墓所は、東京都荒川区西日暮里の本行寺にあり、東京都旧跡に指定されています。​彼の業績は、詩文だけでなく、教育者としても高く評価されており、現在もその影響は続いています。​

市河寛斎は、江戸時代の漢詩の革新を推進し、多くの門人を育てた教育者として、日本の文学史において重要な位置を占めています。​彼の詩風や教育理念は、後世に大きな影響を与えました。​