屋代弘賢やしろひろかた

時代 江戸時代
カテゴリー 掛け軸,絵画、書画
作品種別 墨蹟・書
プロフィール 屋代 弘賢(やしろ ひろかた、宝暦8年(1758年) - 天保12年閏1月18日(1841年3月10日)は、江戸時代後期の江戸幕府御家人(右筆)・国学者。江戸神田明神下の幕臣屋代忠太夫佳房の子。通称は太郎。号は輪池。初名は詮虎。その後、諱を詮賢、弘賢、詮丈の順に改める。

屋代弘賢(やしろ ひろかた、1758年〈宝暦8年〉– 1841年〈天保12年〉)は、江戸時代中期から後期にかけて活躍した江戸幕府の幕臣であり、国学者、書家、蔵書家としても知られています。​通称は太郎吉、のちに大郎。号は輪池。​江戸・神田明神下の幕臣・屋代佳房の子として生まれました。​

幕臣としての経歴
弘賢は7歳の頃から持明院流の書道師範・森尹祥に書を学び、後に持明院宗時に入門しました。​安永8年(1779年)に家督を継ぎ、天明元年(1781年)に西丸台所に出仕。​翌年には幕府の書役に登用され、寛政5年(1793年)には奥右筆所詰支配勘定格となり、文化元年(1804年)には御目見以上(旗本)に昇進しました。​また、文化2年(1805年)にはロシアへの幕府の返書を清書するなど、書家としても活躍しました。 ​

学問と著作活動
国学を塙保己一に学び、『群書類従』の編纂に参加しました。​また、柴野栗山のもとで『国鑑』の編纂にも従事し、京都・奈良の古社寺を訪れて古文書の調査を行いました。​幕命により『寛政重修諸家譜』や『古今要覧稿』などの編纂にも携わり、該博な学識で知られました。​

『古今要覧稿』は、日本の事物の起源や沿革を文献に基づいて分類・考証した類書(百科事典)で、弘賢が総判として作成しました。​一千巻を予定していましたが、弘賢の死により未完に終わりました。 ​

蔵書家としての活動
弘賢は蔵書家としても知られ、和漢の書を収集し、蔵書は5万巻に及んだとされています。​不忍池近くの宮下に書庫を構え、「不忍文庫」と称しました。​死後、蔵書の一部は徳島藩に献納され、「阿波国文庫」の中核となりましたが、1950年の火災により焼失しました。 ​

交友関係と影響
同時代の蔵書家である小山田与清や大田南畝と交友を持ち、蔵書の貸借や情報交換を行うネットワークの中心人物でした。​また、国学者の平田篤胤には援助の手を差し伸べ、篤胤の『赤県度制考』は弘賢の委嘱による著作とされています。 ​

最期と遺産
弘賢は天保12年閏1月18日(1841年3月10日)に84歳で死去し、東京都文京区白山の妙清寺に葬られました。​多数の著作は稿本のまま、国立国会図書館、静嘉堂文庫、東洋文庫、国立公文書館、無窮会図書館などに伝わっています。 ​

屋代弘賢は、幕臣としての職務を全うする傍ら、国学や書道、蔵書活動においても多大な貢献を果たし、江戸時代後期の学問・文化の発展に寄与した人物です。​