松浦鎮信まつらしげのぶ
時代 | 江戸時代 |
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カテゴリー | 掛け軸,絵画、書画 |
作品種別 | 墨蹟・書 |
プロフィール | 松浦 鎮信(まつら しげのぶ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての大名。平戸の松浦氏第26代当主。肥前国平戸藩初代藩主。 戦国大名大友義鎮(宗麟)より偏諱を与えられ鎮信を名乗る。晩年、山城上醍醐行樹院[1]にて出家し、法号は宗信、後に無外庵宗静と称した。出家後は法眼に叙されて法印に昇り、式部卿に任ぜられたため式部卿法印、平戸法印とも呼ばれた。なお、曾孫にあたる第4代平戸藩主も、隠居後に重信から同じ字の鎮信に改名しており、改名後の表記で主に知られる。 松浦鎮信(まつら しげのぶ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけて活躍した肥前国平戸の大名であり、平戸藩の初代藩主として知られています。彼は平戸松浦氏第26代当主であり、豊臣秀吉や徳川家康との関係を通じて、平戸藩の基礎を築きました。 生涯と政治的活動 出生と家督相続:1549年(天文18年)に松浦隆信の長男として生まれ、1568年(永禄11年)に元服し、家督を継ぎました。 豊臣政権との関係:1587年(天正15年)の豊臣秀吉による九州征伐後、秀吉に臣従し、領地を安堵されました。その後、文禄・慶長の役(1592年–1598年)では、朝鮮出兵に参加しました。 徳川政権との関係:関ヶ原の戦い(1600年)では、孫の松浦久信が西軍に属した一方で、鎮信自身は東軍に与し、徳川家康から所領を安堵され、平戸藩初代藩主となりました。 平戸城とその後 鎮信は1599年(慶長4年)から平戸城(亀岡城)の築城を開始しましたが、関ヶ原の戦い後の1607年(慶長12年)に火災により焼失しました。その後、平戸藩の藩庁は平戸港を挟んだ北側に移されました。 貿易と宗教政策 鎮信は平戸を拠点に南蛮貿易を推進し、オランダやイギリスとの交易を行いました。しかし、キリスト教に対しては厳しい態度を取り、藩内での布教を禁止し、キリシタンの取り締まりを行いました。 死去と後継 鎮信は1614年(慶長19年)に66歳で死去しました。その後、孫の松浦隆信が平戸藩の第3代藩主となり、藩政を引き継ぎました。 松浦鎮信は、戦国時代から江戸時代初期にかけての激動の時代において、平戸藩の基礎を築いた重要な人物です。彼の政策や行動は、後の平戸藩の発展に大きな影響を与えました。 |