青木昆陽あおきこんよう

時代 江戸時代
カテゴリー 掛け軸,絵画、書画
作品種別 墨蹟・書
プロフィール 青木 昆陽(あおき こんよう、元禄11年5月12日(1698年6月19日) - 明和6年10月12日(1769年11月9日))は、江戸時代中期の儒学者、蘭学者。名は敦書、字は厚甫、通称は文蔵、昆陽と号した。

青木昆陽(あおき こんよう、1698年6月19日〈元禄11年5月12日〉 - 1769年11月9日〈明和6年10月12日〉)は、江戸時代中期の儒学者・蘭学者・幕臣であり、特に**サツマイモの普及に尽力したことから「甘藷先生(かんしょせんせい)」**と称されました。​

生涯と学問的背景

青木昆陽は江戸・日本橋の魚問屋「佃屋」の一人息子として生まれました。​幼少期から学問に強い関心を持ち、22歳のときに京都へ上り、儒学者・伊藤東涯に師事して古義学を学びました。​その後、江戸に戻り私塾を開きましたが、町奉行・大岡忠相の推薦により、将軍・徳川吉宗に仕えることとなり、幕府の書物奉行として活躍しました。 ​

サツマイモの普及と『蕃薯考』

享保の大飢饉(1732年)を目の当たりにした昆陽は、飢饉対策としてサツマイモ(甘藷)に着目しました。​当時、薩摩藩では既に栽培されていたサツマイモを関東地方にも広めるべく、1735年に『蕃薯考』を著し、栽培方法や利点を詳述しました。 ​

幕府の支援を受け、江戸の小石川薬園(現在の小石川植物園)や下総国馬加村(現在の千葉市花見川区幕張町)などで試験栽培を行い、成功を収めました。​これにより、サツマイモは関東地方を中心に広まり、後の天明・天保の大飢饉の際にも多くの人々を飢餓から救いました。 ​

蘭学の先駆者としての功績

青木昆陽は、将軍・徳川吉宗の命により、医師・野呂元丈とともにオランダ語の学習を始めました。​彼は『和蘭文訳』や『和蘭文字略考』などのオランダ語学習書を著し、日本における蘭学(オランダ学)の基礎を築きました。​これらの著作は、後の蘭学者たちにも大きな影響を与えました。 ​

晩年と遺産

晩年、昆陽は目黒に隠棲し、富士山を望む場所に自らの墓を設け、「甘藷先生墓」と刻みました。​1769年に71歳で亡くなり、その墓は現在、東京都目黒区の瀧泉寺(目黒不動尊)にあり、国の史跡に指定されています。 ​

現代における評価

青木昆陽の功績は、現在も高く評価されています。​千葉市花見川区幕張町には、彼がサツマイモの試験栽培を行った地として「青木昆陽甘藷試作地」の碑が建てられ、千葉県の史跡に指定されています。 ​

青木昆陽は、学問と実践を融合させ、飢饉対策としてサツマイモの普及に尽力した先見の明を持つ人物でした。​彼の功績は、現代においても多くの人々に称えられています。​