広瀬淡窓ひろせたんそう

時代 江戸時代
カテゴリー 掛け軸,絵画、書画
作品種別 墨蹟・書
プロフィール 広瀬 淡窓(ひろせ たんそう、天明2年4月11日(1782年5月22日) - 安政3年11月1日(1856年11月28日))は、江戸時代の儒学者で、教育者、漢詩人でもあった。豊後国日田の人。淡窓は号。通称は寅之助のちに求馬(よみはモトメ)。諱は建。字は廉卿あるいは子基。別号に青渓など。死後、弟子たちにより文玄先生とおくり名されたという。末弟に広瀬旭荘、弟広瀬久兵衛の子孫に、日田市長、衆議院議員だった広瀬正雄、その子息の一人広瀬勝貞は現大分県知事。

広瀬淡窓(ひろせ たんそう、1782年〈天明2年〉 – 1856年〈安政3年〉)は、江戸時代後期の儒学者・漢詩人・教育者であり、九州日田(現在の大分県日田市)に私塾「咸宜園(かんぎえん)」を開いたことで知られます。幕末期の人材育成に大きな影響を与えた人物で、地方から全国へ学問と教育の理想を広めた教育者の先駆者です。

◆ 生涯概要

出生:1782年、大分県日田の商家に生まれる。父・広瀬栄(えい)は代々薬種商「廣瀬屋」を営む豪商。
幼名は「元吉(もとよし)」。のちに「淡窓」と号す。
幼少期から詩文や学問に親しみ、特に漢詩と朱子学に傾倒。
十代後半には江戸遊学を経験し、頼山陽や菊池五山らと交友を深める。
◆ 咸宜園の創設と教育理念

1817年(文化14年)、36歳のときに私塾「咸宜園」を開設。
「咸宜」とは『詩経』に由来し、「万人が共に学ぶにふさわしい場所」という意味。
特徴は以下の通り:
◇ 教育の特徴
身分を問わない教育:武士・農民・商人・町人・僧侶など身分に関係なく入塾可能。
実学重視:朱子学をベースにしながらも、漢詩・歴史・天文・医学など幅広い学問を教授。
自学自習のすすめ:「自修自得」の精神を強調し、生徒自身が学問に目覚めることを重視。
寄宿舎制を取り入れ、全国から多くの門人が集った。
◆ 門人と影響

咸宜園の門下生は約5,000人以上とされ、当時の私塾としては破格の規模を誇ります。著名な門人には:

大村益次郎(村田蔵六):幕末の兵学者・明治維新の軍制創設者
高野長英:蘭学者・思想家
長三洲、帆足万里など地方の俊才も多く育てた
→ このように、**幕末維新期の改革派人材の“揺籃の地”**として位置づけられます。

◆ 学問・文学の業績

儒教の朱子学を中心に据えながらも、教育的には非常に開かれた姿勢。
漢詩に秀で、「詩人としての淡窓」という評価も高い。
『淡窓詩鈔』『文稿』『約言』など多くの詩文集を著す。
特に『約言』は、咸宜園での教えの精髄を短文で伝える教育書として知られる。
◆ 晩年と死

1856年、75歳で死去。死後も咸宜園は息子の広瀬久兵衛らが継承。
墓所は大分県日田市にあり、咸宜園跡は現在も保存され、日本遺産としても評価を受けています。
◆ 現代における評価

広瀬淡窓は、**幕末の「地方からの教育改革」**を象徴する人物。
彼の教育方針は、現代の「生涯学習」「自立した学び」に通じるものとして再評価されています。
日田市では淡窓を顕彰する「咸宜園教育研究センター」や記念館も整備され、彼の思想と功績が今も息づいています。