頼春水らいしゅんすい
時代 | 江戸時代 |
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カテゴリー | 掛け軸,絵画、書画 |
作品種別 | 墨蹟・書 |
プロフィール | 頼 春水(らい しゅんすい、延享3年6月30日(1746年8月16日) – 文化13年2月19日(1816年3月17日)は、江戸時代中期・後期の儒学者、詩人。頼山陽の父。 幼名は青圭、諱は惟完あるいは惟寛、字は千秋、伯栗、春水は大坂で用いた号で、江戸では霞崖と称した。別号に拙巣、和亭がある。通称は弥太郎。安芸の人。 **頼 春水(らい しゅんすい、1746年8月16日 – 1816年3月17日)**は、江戸時代中期から後期にかけて活躍した儒学者・詩人・書家であり、幕末の思想家・歴史家である頼山陽の父としても知られています。彼は朱子学の普及に尽力し、広島藩の学制改革や幕府の教育機関である昌平坂学問所の講師としても活躍しました。 基本情報 名:惟寛(ただひろ)または惟完(ただひろ) 字:千秋(せんしゅう)、伯栗(はくりつ) 通称:弥太郎(やたろう) 号:春水(しゅんすい)、霞崖(かがい)、拙巣(せっそう)、和亭(わてい) 出身地:安芸国竹原(現在の広島県竹原市) 生没年:1746年8月16日 – 1816年3月17日 生涯と業績 幼少期と学問の修養 頼春水は、安芸国竹原の裕福な紺屋の家に生まれました。父の教育熱心さから、幼少期より京坂の学者から学問を学びました。長じて大坂へ遊学し、片山北海を盟主とする詩文結社「混沌詩社」の一員となり活躍しました。また、大坂江戸堀北(現・大阪市西区)に私塾「青山社」を開きました。 広島藩儒としての活動 35歳の時、広島藩に藩儒として招聘され、安芸に移住しました。藩校・学問所の創設や次期広島藩主となる世子(浅野斉賢)の教育に携わり、藩の学制を朱子学に統一しました。これは松平定信による寛政異学の禁に先立つものでした。 昌平坂学問所での活動 江戸勤務中には、幕府の教育機関である昌平坂学問所の講師を務めました。朱子学の普及に尽力し、多くの門弟を育てました。 書家・詩人としての側面 頼春水は、書家としても名高く、文化8年(1811年)の朝鮮通信使応接の際、日本側から「当今第一」の書家として名を挙げられました。 また、詩人としても知られ、多くの詩作を残しました。彼の作品は、現在も美術館などで所蔵・展示されています。 家族と後世への影響 頼春水の妻は静子(梅颸)で、彼女も日記を残しており、夫婦の日記は江戸時代の儒家家庭の生活を知る貴重な資料となっています。 息子の頼山陽は、幕末の思想家・歴史家として有名であり、春水の教育が彼の思想形成に大きな影響を与えました。 関連資料と展示 広島県教育委員会では、頼春水とその家族に関する資料を多数所蔵しており、企画展「芸藩教授頼春水と頼家の人々」などで紹介されています。 頼春水は、江戸時代の儒学者としてだけでなく、書家・詩人としても多方面で活躍し、後世に多大な影響を与えました。彼の業績は、現在も多くの人々に評価されています。 |