高島秋帆たかしましゅうはん

時代 江戸時代
カテゴリー 掛け軸,絵画、書画
作品種別 墨蹟・書
プロフィール 高島 秋帆(たかしま しゅうはん)は、江戸時代後期から末期の砲術家。高島流砲術の創始者(流祖)。「火技之中興洋兵之開祖」と号すことを認められた。

高島秋帆(たかしま しゅうはん、1798年〈寛政10年〉– 1866年〈慶応2年〉)は、江戸時代後期から幕末にかけて活躍した砲術家であり、日本における西洋式砲術の導入と普及に尽力した人物です。​彼は「高島流砲術」の創始者として知られ、幕府の軍制改革に大きな影響を与えました。​

生涯と業績

幼少期と学問の修得
高島秋帆は長崎の町年寄の家に生まれ、父の跡を継いで町年寄や鉄砲方を務めました。​出島のオランダ人との交流を通じて、西洋の軍事技術に触れ、特に砲術に関心を持ちました。​彼はオランダ語や洋式砲術を学び、独自の研究を進めました。​

高島流砲術の創始
1834年(天保5年)、秋帆は私費を投じて洋式銃器を揃え、西洋式砲術の研究を本格化させました。​彼は西洋の砲術書を翻訳・研究し、独自の「高島流砲術」を確立しました。​この流派は、従来の和式砲術とは一線を画し、実戦的な訓練と合理的な戦術を重視していました。​

徳丸ヶ原での調練と幕府への影響
1841年(天保12年)、秋帆は幕府の命により、江戸近郊の徳丸ヶ原(現在の東京都板橋区高島平)で西洋式砲術の調練を実施しました。​この演習は日本初の洋式軍事訓練とされ、幕府に西洋式兵学の有用性を示す契機となりました。​この功績により、秋帆は幕府から正式に認められ、砲術の普及に努めました。​

投獄と赦免
しかし、翌1842年(天保13年)、秋帆は政敵の中傷により謀反の疑いをかけられ、投獄されました。​彼は岡部藩に預けられ、長期間幽閉されましたが、その間も藩士に兵学を教えるなどして過ごしました。​1853年(嘉永6年)、ペリーの来航により幕府が軍事改革の必要性を痛感し、秋帆は赦免されました。​

晩年と死去
赦免後、秋帆は幕府の軍事訓練施設である講武所で砲術師範を務め、幕府の軍制改革に尽力しました。​彼は1866年(慶応2年)に69歳で亡くなりました。​その功績を称え、東京都板橋区の高島平や、徳丸ヶ原公園内には彼の記念碑が建てられています。​

高島秋帆の功績と影響

西洋式砲術の導入:​秋帆は日本における西洋式砲術の先駆者であり、その導入と普及に尽力しました。
高島流砲術の確立:​彼の創始した高島流砲術は、実戦的な訓練と合理的な戦術を重視し、幕府の軍制改革に大きな影響を与えました。
教育者としての貢献:​秋帆は多くの門弟を育て、後の幕府の軍事指導者たちに影響を与えました。
地名への影響:​彼の功績を称え、東京都板橋区の「高島平」という地名が生まれました。​

高島秋帆の生涯は、日本が近代化へと歩みを進める中で、西洋の技術や知識を取り入れる重要性を示すものでした。​彼の努力と情熱は、後の日本の軍事改革や近代化に大きな影響を与えました。​