伊藤東涯いとうとうがい

時代 江戸時代
カテゴリー 掛け軸,絵画、書画
作品種別 墨蹟・書
プロフィール 伊藤 東涯(いとう とうがい、寛文10年4月28日(1670年6月15日) - 元文元年7月17日(1736年8月23日))は、江戸時代中期の儒学者。儒学者伊藤仁斎の長男で、その私塾古義堂の2代目。異母弟に同じく儒学者の伊藤介亭がおり、母の嘉那は尾形光琳・乾山の従姉に当たる。名は長胤(ながつぐ)、字は原蔵・源蔵・元蔵、東涯と號し、又慥々齋と号す、諡は紹述先生。

伊藤 東涯(いとう とうがい、1670年〈寛文10年〉– 1736年〈元文元年〉)は、江戸時代前期の儒学者・朱子学者・政治思想家であり、伊藤仁斎の長男として京都で生まれ、父の学問「古義堂学派(こぎどうがくは)」を継承・発展させた人物です。江戸幕府からも高く評価され、幕政にも関与しました。

◆ 基本情報


項目 内容
名前 伊藤 東涯(いとう とうがい)
本名 伊藤 仁良(まさよし)
生年 1670年(寛文10年)
没年 1736年(元文元年)
出身地 京都
学派 古義堂学派(古学)
父 伊藤 仁斎(儒学者)
号 東涯(とうがい)
主な職 儒学者、古義堂の二代目主宰、幕府儒官(柳沢吉保に仕える)
◆ 生涯と活動

◉ 幼少〜青年期
父・伊藤仁斎は、江戸時代を代表する儒学者で、「古義学(こぎがく)」の創始者。
東涯も幼少から仁斎の学問を学び、非常に早熟で、20代にはすでに多くの注目を集めていました。
◉ 古義堂の継承
父の死後、学塾「古義堂(こぎどう)」の主宰者となり、朱子学に対抗する**「孔子の原典回帰」**の思想を広めました。
朱子学が理論重視・抽象的な傾向を持つのに対し、古義学は「実際の言葉と行動の道徳」を重視しました。
◆ 学問的特色

◉ 古義学(仁斎の思想)の継承と発展
父・仁斎は『論語』『孟子』の原文に立ち返ることを説き、朱子学の理気論を否定しました。
東涯もこの路線を継承し、「仁・孝・誠」などの徳を日常的な実践倫理としてとらえ直すことに注力しました。
◉ 政治論・教育論への関心
実用的な教育の重要性を説き、武士や町人の倫理的修養の必要性を強調しました。
「誠実な政治こそが民を正す」という主張は、後の陽明学や国学者たちにも影響を与えます。
◆ 江戸幕府との関わり

柳沢吉保に招聘されて江戸に下向し、幕政顧問的な役割を果たしました。
その後も江戸と京都を往来しながら、多くの弟子を育成。
幕府の儒官としては異例の「朱子学以外の儒学者」として尊重された点が特徴です。
◆ 主な著作


書名 内容
『論語古義』 父・仁斎の講義を整理した書物。孔子の原意に基づいた注解。
『孟子古義』 同上。孟子の道徳観を仁斎・東涯流に解釈。
『童子問』 子弟の教育を目的とした対話形式の入門書。江戸で大ベストセラーに。
『史記抜粋』 儒学教育の一環として中国史を紹介した読み物的教材。
◆ 教育者としての姿

古義堂では身分を問わず門戸を開き、武士・町人・農民などに平等に教えたとされています。
「実生活に根ざした儒学こそ本物」という信念を貫き、道徳と知識の一致を追求しました。
門人には各地の藩校関係者、町人文化の指導者、国学者の先駆なども多く、幅広い影響力を持ちました。
◆ 人物像と評価


観点 評価
学問 朱子学一辺倒だった江戸の儒学界に「実践重視の古義学」を確立
人格 温厚で理知的、父仁斎の精神を忠実に受け継ぎながら柔軟性も備える
政治 柳沢吉保に儒者として登用され、政治思想にも一定の影響力
教育 『童子問』など、子弟教育に優れた著作を残した点で後世に評価
◆ まとめ


項目 内容
名前 伊藤 東涯(いとう とうがい)
本名 伊藤 仁良(まさよし)
生年没年 1670年 – 1736年
活動地 京都・江戸
学派 古義堂学派(古学)
父 伊藤仁斎
特徴 実践重視の儒学、徳育・教育論の展開、幕府顧問としても活躍
代表作 『論語古義』『孟子古義』『童子問』など