武市瑞山たけちずいざん

時代 江戸時代
カテゴリー 掛け軸,絵画、書画
作品種別 墨蹟・書
プロフィール 武市 瑞山(たけち ずいざん)は、日本の志士、武士(土佐藩郷士)。土佐勤王党の盟主。通称は半平太で、武市 半平太(たけち はんぺいた)と呼称されることも多い。幼名は鹿衛。諱は小楯(こたて)。号は瑞山または茗澗。変名は柳川左門。後に柳川左門と変名した際は雅号を吹山とした。
土佐藩郷士・武市正恒(白札格、51石)の長男。母は大井氏の娘。妻は土佐藩郷士・島村源次郎の長女・富子。子女はなし。坂本龍馬とは遠縁にあたる。
優れた剣術家であったが、黒船来航以降の時勢の動揺を受けて攘夷と挙藩勤王を掲げる土佐勤王党を結成。参政・吉田東洋を暗殺して藩論を尊王攘夷に転換させることに成功した。京都と江戸での国事周旋によって一時は藩論を主導し、京洛における尊皇攘夷運動の中心的役割を担ったが、八月十八日の政変により政局が一変すると前藩主・山内容堂によって投獄される。1年8か月20日の獄中闘争を経て切腹を命じられ、土佐勤王党は壊滅した。

武市 瑞山(たけち ずいざん、1829年〈文政12年〉– 1865年〈慶応元年〉)は、幕末の土佐藩(現在の高知県)の志士・儒者・尊王攘夷運動の指導者です。本名は武市 半平太(たけち はんぺいた)。土佐勤王党の盟主として土佐藩内の改革と尊王攘夷運動の拡大に尽力しましたが、後に藩内の政変により獄死しました。

◆ 基本情報


項目 内容
氏名 武市 瑞山(たけち ずいざん)
本名 武市 半平太(たけち はんぺいた)
生年 1829年(文政12年)
没年 1865年(慶応元年)
出身地 土佐国(現在の高知県高知市)
身分 土佐藩郷士(下級武士)
流派 尊王攘夷、陽明学、崎門学
別号 瑞山(ずいざん)、松南道人など
◆ 生涯の概要

◉ 幼少〜青年期
土佐藩の下級武士(郷士)出身。幼少より剣術と儒学を学び、文武両道に優れた人物として知られました。
剣術は岡田以蔵や中岡慎太郎らにも影響を与えるほどで、江戸では鏡心明智流を修め、免許皆伝を得ました。
◉ 尊王攘夷思想への傾倒
儒学(特に陽明学)と水戸学の影響を受け、尊王攘夷=天皇中心の国家観と外国排斥の思想に傾倒。
藩政改革とともに、幕府を批判する政治思想を持つようになります。
◆ 土佐勤王党の結成と活動

◉ 土佐勤王党の結成(1861年)
尊王攘夷を志す藩士たちを結集し、「土佐勤王党」を組織。
藩内の革新派として、公武合体派(佐幕派)を圧倒する勢力となり、藩の政策に大きな影響を及ぼしました。
◉ 志士たちとの連携
全国の尊攘派志士と連携し、長州藩・水戸藩・京都の志士とも接触。
坂本龍馬も最初は武市に従い、土佐勤王党の一員として活動していました。
◆ 失脚と獄死

◉ 藩内政変と逮捕
土佐藩主・山内容堂が公武合体派に転じたことにより、武市は突如として弾圧の対象に。
1863年、土佐勤王党は弾圧され、武市は投獄されます。
◉ 獄中での最期
2年にわたる獄中生活の末、1865年、切腹を命じられ自刃。享年37。
切腹前の筆による辞世の句と遺墨が現在も伝えられています。
◆ 思想と人物像

◉ 尊王攘夷の体現者
「天皇を中心とする日本の独立を守る」という思想を貫き、行動した武士の一人。
過激な行動はとらず、**道義と忠誠を重んじる「文士的志士」**であったと評価されています。
◉ 教育者・道義人としての側面
部下や弟子に対しても厳しく正直で、私利私欲を排した生き方を貫いたとされます。
牢獄での潔さ、書簡の丁寧さから、敵味方を問わずその人格を称賛されました。
◆ 遺品と辞世

辞世の句(自筆)
 
  「君が代は 千代に八千代に さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで」
 
→ この和歌(『君が代』)を最後に遺し、自ら切腹したと伝えられます。
遺墨や書簡は現在も高知県立坂本龍馬記念館などで保管・展示されています。
◆ 後世の評価


観点 内容
維新との関係 明治維新の直接の担い手ではないが、思想的基盤を整えた先駆者
人格評価 篤実・廉潔な人物として高く評価され、**「武士の鑑」**とも称される
土佐藩の歴史 龍馬や大久保とは対照的に、藩体制内で理想を貫いた殉教者的存在
◆ まとめ


項目 内容
名前 武市瑞山(武市半平太)
生年没年 1829年 – 1865年
出身地 土佐(高知県)
立場 土佐勤王党盟主、尊王攘夷派の志士
主な弟子 岡田以蔵、中岡慎太郎、坂本龍馬(初期)
評価 篤実な思想家型の志士、幕末土佐の精神的指導者
最期 土佐藩による投獄の末、自刃(切腹)