雲居希膺うんごけよう

時代 江戸時代
カテゴリー 掛け軸,絵画、書画
作品種別 墨蹟・書
プロフィール 江戸前期の臨済宗の僧。妙心寺百五十三世。土佐生。法諱は希膺、道号は雲居、号は把不住軒、俗姓は小浜。大徳寺賢谷宗良について出家得度し、妙心寺一宙東黙の法を嗣ぐ。仙台藩主伊達忠宗に請われて松島瑞巌寺を中興し、大梅寺を創建。万治2年(1659)寂、78才。

雲居 希膺(うんご きよう、1606年〈慶長11年〉– 1668年〈寛文8年〉)は、江戸時代前期の臨済宗の高僧・禅者で、特に**徳川家光・家綱の時代に幕府から深く信頼された「江戸仏教界の重鎮」**です。近世臨済禅の代表的存在の一人であり、京都・妙心寺派の名僧として、教義・修行・人材育成に優れた業績を残しました。

◆ 基本情報


項目 内容
名前 雲居 希膺(うんご きよう)
生年 1606年(慶長11年)
没年 1668年(寛文8年)
出身地 備中(現在の岡山県)または美作国(異説あり)
宗派 臨済宗(妙心寺派)
主な役職 妙心寺派の高僧・大徳寺住持・南禅寺住持など
諡号 大慈圓明国師(死後、後西天皇より下賜)
◆ 生涯の概要

◉ 幼少〜出家
1606年、美作または備中の武家の出身とされ、幼い頃に仏門に入りました。
幼名は「宗白」。のちに京都の**妙心寺・南化玄興(なんけ げんこう)**のもとで厳しい修行を積みます。
若くして卓越した才能と禅風で注目され、妙心寺派の中でも異彩を放つ存在となりました。
◆ 禅僧としての活動

◉ 高僧としての修行と登用
臨済宗の修行体系である**公案禅(こうあんぜん)**の指導に優れ、数多くの弟子を育成。
江戸時代初期、幕府による寺院統制政策の中で、幕府公認の禅宗指導者として重用されました。
南禅寺、建仁寺、妙心寺といった名刹で住持を務め、臨済宗の中興の祖の一人とも見なされています。
◉ 徳川家との関係
三代将軍・徳川家光の信任が厚く、たびたび江戸城に招かれて法話や接見を行いました。
家光の死後も、家綱により手厚く遇されました。
その人格と学識から、朝廷と幕府の双方から尊崇され、法王・公卿・大名にも多くの帰依者がいます。
◆ 教義と思想

雲居希膺の禅風は、「公案を厳しく通過する正統的な臨済禅」とされ、精神の徹底的鍛錬を重視しました。
しかし同時に、詩文・書にも通じ、文人僧としての側面も持ち合わせていたのが特徴です。
禅と世俗との距離の取り方にも工夫があり、幕府や武士社会と対話する姿勢を保っていました。
◆ 死後と顕彰

1668年、京都にて入寂(死去)。享年63。
死後、後西天皇より「大慈圓明国師(だいじえんみょうこくし)」の国師号を賜るという、臨済宗高僧として最高位の栄誉を受けました。
現在も、雲居希膺の教えは妙心寺派の法系の中で受け継がれており、その名は多くの禅院に祀られています。
◆ 主な弟子・影響

雲居希膺の門下からは、東嶺円慈・大愚宗築・愚堂東寔といった名僧が育ちました。
江戸初期の「禅宗安定期」を支える人材を多く育て、江戸・京都・鎌倉を中心とした禅文化の隆盛に貢献しました。
◆ 人物像と評価


観点 内容
学識 仏教経典に精通し、詩文・書にも通じた総合的教養人
禅風 公案禅の厳格な修行重視、人格修養と一体化した指導
政治との関係 幕府との良好な関係を築き、臨済宗の宗勢維持に貢献
死後の尊崇 国師号賜与は、臨済宗史上でも数少ない高評価の証し
◆ まとめ


項目 内容
名前 雲居希膺(うんご きよう)
生没年 1606年 – 1668年
宗派 臨済宗妙心寺派
活動地 京都(妙心寺・南禅寺・建仁寺)、江戸
功績 幕府に信任された禅僧、公案禅の継承、禅宗界の安定化
尊称 大慈圓明国師(後西天皇より賜与)