島津斎彬しまづなりあきら
時代 | 江戸時代 |
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カテゴリー | 掛け軸,絵画、書画 |
作品種別 | 墨蹟・書 |
プロフィール | 島津 斉彬(しまづ なりあきら)は、江戸時代後期から幕末の外様大名で、薩摩藩の第11代藩主。島津氏第28代当主。 薩摩藩の富国強兵に成功した幕末の名君の一人である。西郷隆盛ら幕末に活躍する人材も育てた。 島津 斉彬(しまづ なりあきら、1809年〈文化6年〉– 1858年〈安政5年〉)は、江戸時代後期の薩摩藩第11代藩主であり、幕末の開明派大名の代表格です。開国・富国強兵・殖産興業に先駆的に取り組み、**「近代日本の礎を築いた先駆者」**とも称されます。西郷隆盛・大久保利通といった明治維新の中心人物を見出し、育てたことでも知られています。 ◆ 基本情報 項目 内容 氏名 島津 斉彬(しまづ なりあきら) 生年 1809年(文化6年) 没年 1858年(安政5年) 出身 薩摩藩(現在の鹿児島県) 家系 島津氏第28代当主、父は島津斉興(第10代藩主) 役職 薩摩藩第11代藩主(1851–1858) 通称・号 幼名:虎寿丸、通称:又三郎、号:惟敬(いけい) など ◆ 生涯と政治的歩み ◉ 青年期と内紛 幼少より聡明で、和漢洋の学問に通じる。 父・斉興との間で藩主の座をめぐる対立が生じ、「お由羅騒動(おゆらそうどう)」が発生。家老調所広郷らとの政争に巻き込まれ、一時失脚。 1851年、斉興の隠居により藩主に就任。 ◉ 藩政改革と近代化政策 藩主就任後、ただちに近代化政策を推進。 主な施策: 集成館事業:反射炉、大砲鋳造所、紡績工場、ガラス製造、電信施設などを整備。薩摩を「工業先進藩」へと変貌させる。 軍事改革:西洋式軍制の導入、兵器・艦船の国産化推進。 教育・人材育成:有能な下級藩士を抜擢(西郷隆盛・大久保利通など)、洋学・兵学・航海術などを奨励。 外交戦略:開国・開明的立場をとり、列強との対話を模索。 ◆ 幕政への影響と将軍継嗣問題 徳川慶喜(よしのぶ)を将軍継嗣とする運動の中心人物。井伊直弼らの保守派と対立。 開国に積極的な立場をとり、日米和親条約・日米修好通商条約の調印を容認する方向で動いた。 **一橋派(改革派)**の中心として、幕政改革を目指す。 ◆ 謎の死とその影響 1858年、将軍継嗣問題の最中に江戸藩邸で急死(享年50)。 毒殺説も根強く、井伊直弼との政争の中で暗殺されたとも言われる。 死後、幕政改革の流れは一時的に停滞し、安政の大獄へとつながっていく。 ◆ 人物像と評価 ◉ 開明的リーダー 儒学・朱子学の素養を持ちながらも、西洋技術・学問に対して極めて柔軟。 藩政の近代化とともに、国家観・政治観の先進性においても傑出していた。 ◉ 育成者としての手腕 西郷隆盛、大久保利通、村田新八、海江田信義などを抜擢・育成。 「能力があれば身分に関わらず登用する」姿勢は、薩摩藩の政治的底力を高めた。 ◆ 集成館事業の象徴性 部門 内容 産業 鉄鋼、大砲、造船、紡績、製薬、印刷など 科学 ガラス製造、電信実験、蒸気機関の導入 教育 洋学・兵学の教育施設の整備、人材派遣 意義 日本初の総合的な殖産興業・産業近代化プロジェクト ◆ まとめ 項目 内容 名前 島津斉彬(しまづ なりあきら) 生年没年 1809年 – 1858年 藩 薩摩藩 第11代藩主 政策 近代化、富国強兵、集成館事業 特徴 開国・開明派の先駆者、藩政改革者 後継者 島津忠義(実子)、思想的後継に西郷・大久保ら ◆ 島津斉彬の言葉(とされるもの) 「人は石垣、人は城」 → 経済や軍事だけでなく、人材こそが国を支えるという信念を表す。 |