森川許六もりかわきょりく
時代 | 江戸時代 |
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カテゴリー | 掛け軸,絵画、書画 |
作品種別 | 墨蹟・書 |
プロフィール | 森川 許六(もりかわ きょりく)は、江戸時代前期から中期にかけての俳人、近江蕉門。蕉門十哲の一人。名は百仲、字は羽官、幼名を兵助または金平と言う。五老井・無々居士・琢々庵・碌々庵・如石庵・巴東楼・横斜庵・風狂堂など多くの別号がある。近江国彦根藩の藩士で、絵師でもあった。 森川 許六(もりかわ きょりく、1656年〈明暦2年〉– 1715年〈正徳5年〉)は、江戸時代前期の俳人・画家・武士であり、松尾芭蕉の高弟「蕉門十哲(しょうもんじってつ)」の一人です。俳諧と絵画を融合させた文人芸術家としても知られ、芭蕉と並ぶ俳諧の革新者と評価されています。 ◆ 基本情報 項目 内容 氏名 森川 許六(もりかわ きょりく) 本名 森川 玄庵(げんあん) 号 許六(きょりく)、写山堂(しゃざんどう)など 生年没年 1656年 – 1715年 出身地 近江国彦根藩(現在の滋賀県彦根市) 職業 武士(彦根藩士)、俳人、画家 師 松尾芭蕉(俳諧)、狩野派(絵画) 代表作 『風俗文選』『風俗画譜』、芭蕉との共著『あつめ句』 など ◆ 生涯と活動 ◉ 彦根藩士としての出自 彦根藩井伊家の家臣であり、武士としての身分を持ちながらも、若くして俳諧・書画に深い関心を抱きます。 江戸に出て俳諧を学ぶ中で、松尾芭蕉と出会い、深い師弟関係を築きました。 ◉ 芭蕉の高弟として 許六は、蕉風俳諧(しょうふうはいかい)において、特に**「写生」と「風俗の描写」**を重視。 芭蕉の美意識「不易流行」に共鳴しつつ、より写実的・芸術的な観点から句作・絵画を追究しました。 ◉ 文人としての多才ぶり 俳諧・書・画の三拍子揃った文人であり、南画(文人画)風の画風で知られる。 和漢の古典にも通じ、学識に富み、多くの知識人とも交流を持ちました。 ◆ 俳諧観と革新性 ◉ 「俳諧は風俗の文なり」 これは許六が掲げた俳諧理念の一つで、俳句はその時代の風俗・人情・生活を映す文芸であるという考え方。 形式や技巧だけでなく、「生きた言葉と感性」を重視した点が特徴。 ◉ 芭蕉との関係 師弟というよりも「俳諧芸術における対等の議論相手」としての信頼を得ており、芭蕉は許六の芸術論を高く評価していました。 両者の共著『あつめ句』には、互いの句作と評が収められています。 ◆ 絵画活動 許六は狩野派にも学び、山水画・人物画・風俗画に優れました。 特に、庶民の生活や風俗を描いた作品には、俳諧と同様の「写生精神」が表れています。 画号「写山堂」とも称し、俳画(俳句に添える挿絵)や掛軸作品なども制作。 ◆ 主な著作・作品 『風俗文選』:俳諧論・風俗観察などを記した随筆的な評論。 『風俗画譜』:絵と文で当時の町人文化・風物を描写。 『あつめ句』:芭蕉と共著。互いの句に批評や意見を交わすという異例の作品。 『俳諧問答』:弟子との問答形式で、俳諧観や表現論を述べた記録。 ◆ 死と後世の評価 1715年に没(享年60)。晩年まで絵と俳諧の融合を追究し続けました。 その革新的な感性と実践は、芭蕉亡き後の蕉門を補強し、**「蕉風俳諧を芸術の域へと高めた人物」**として再評価されています。 明治以降は特に、俳画や写生俳諧の祖として注目され、美術史・俳句史の双方で語られる存在です。 ◆ まとめ 項目 内容 名前 森川許六(もりかわ きょりく) 生年没年 1656年 – 1715年 出身 彦根藩(滋賀県) 師匠 松尾芭蕉(俳諧)、狩野派(絵) 分野 俳諧、書画、随筆 特徴 写生重視、風俗描写、文人としての多才ぶり 著作 『風俗文選』『風俗画譜』『あつめ句』など |