頼杏坪らいきょうへい

時代 江戸時代
カテゴリー 掛け軸,絵画、書画
作品種別 墨蹟・書
プロフィール 頼 杏坪(らい きょうへい、宝暦6年(1756年)7月 - 天保5年7月23日(1834年8月27日))は江戸時代の儒学者、広島藩士。名は惟柔(ただなご)、字は千祺(せんき)・季立、号は春草堂、通称は万四郎、別号に春草、杏翁。

頼 杏坪(らい きょうへい、1756年〈宝暦6年〉– 1834年〈天保5年〉)は、江戸時代中期から後期にかけて活躍した儒学者・漢詩人・教育者です。儒学者として知られる頼春水、蘭学者として名高い頼山陽の父としても知られ、一家で日本の学問・詩文・思想界に大きな足跡を残しました。

◆ 概略


項目 内容
本名 頼 杏坪(らい きょうへい)
通称 頼三樹、頼松陰、杏坪は号
生年没年 1756年(宝暦6年)– 1834年(天保5年)
出身 安芸国(現・広島県呉市)
分野 儒学(朱子学)、漢詩、教育
家族 長男:頼春水、孫:頼山陽
◆ 生涯と学問活動

◉ 広島藩儒としての出発
広島藩の儒学者として取り立てられ、藩校「学問所(後の修道館)」で教鞭を執る。
朱子学を基本としながらも、詩文・歴史・礼楽に精通し、高潔で温厚な人物として知られました。
◉ 家庭教育者としての顔
頼杏坪は、自身の子である頼春水、そして孫の頼山陽を幼い頃から厳格に教育しました。
特に孫の頼山陽に対しては、書物だけでなく、行動や品格にも強く注意を払う教育を徹底したと伝えられます。
山陽が放蕩や奔放な振る舞いに走った際には、家を追放するなど、厳格な一面も持っていました。
◆ 詩人・文人としての活動

◉ 漢詩の才
漢詩文に優れ、多くの漢詩を残しました。特に自然や心情を題材にした詩風が特徴です。
詩風は控えめで典雅、儒者としての道徳観をにじませつつも、親しみやすく静かな余韻を残す作風とされています。
◉ 文人との交流
文化人・儒者たちとの交流も活発で、中国的教養に裏打ちされた「詩礼の人」として、知識人層から尊敬を集めました。
◆ 家族との関係と後世への影響

◉ 頼家三代の系譜
頼杏坪 → 頼春水 → 頼山陽という三代は、日本の学問史において極めて重要です。
自らの教育により、長男・春水をして江戸の儒学界で成功させ、さらに山陽という国学と漢学を融合させた歴史家を育てたことは、日本知識人社会における「頼家」の名声を確立させました。
◆ 晩年と死

晩年は、教育と詩作を続けながら静かに暮らし、1834年に79歳で死去。
頼家の墓所は広島県呉市(旧安芸)にあり、現在も顕彰されています。
◆ 頼杏坪の人物像

温厚篤実、清廉で品格ある儒者
教育者としては厳しく、しかし人間的な情愛にもあふれた一面があった
静かなる文人として、派手さはないが深みのある人物
◆ 評価と意義

頼杏坪は、その著作よりも**「教育者・人格者としての在り方」**が最も評価されます。
頼山陽の思想や詩文の背景には、彼の祖父・杏坪による教育と家庭の雰囲気が色濃く影響しています。
江戸中期の儒者の中でも、「家庭内で学問の家風を築いた人」として特異な存在です。
◆ 関連人物

頼春水:長男。幕府にも知られる朱子学者、漢詩人。江戸で名声を得る。
頼山陽:孫。『日本外史』の著者で、幕末の志士たちに大きな影響を与えた歴史家・詩人。