山鹿素行やまがそこう
時代 | 江戸時代 |
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カテゴリー | 掛け軸,絵画、書画 |
作品種別 | 墨蹟・書 |
プロフィール | 山鹿 素行(やまが そこう、元和8年8月16日(1622年9月21日) - 貞享2年9月26日(1685年10月23日))は、江戸時代前期の日本の儒学者、軍学者。山鹿流兵法及び古学派の祖である。諱は高祐(たかすけ)、また義矩(よしのり)とも。字は子敬、通称は甚五右衛門。因山、素行と号した。 山鹿素行(やまが そこう、1622年〜1685年)は、江戸時代前期の儒学者・兵学者・思想家であり、「武士道」を思想として体系化した最初の人物として知られます。朱子学から独立し、**古学(こがく)**という新たな思想路線を打ち立て、後の吉田松陰や佐藤一斎らにも大きな影響を与えました。 【基本情報】 名前:山鹿 素行(やまが そこう) 諱(いみな):高祐(たかすけ) 通称:素行(そこう)は号 生年:1622年(元和8年) 没年:1685年(貞享2年) 出身地:播磨国赤穂(現在の兵庫県赤穂市) 職業:儒学者・兵学者・思想家 代表著作:『武教小学』『中朝事実』『山鹿語類』など 【思想と学問の特徴】 ◆ 1. 古学の提唱 山鹿素行は、当時の幕府の正統学問であった朱子学に異を唱え、**孔子・孟子の原典に立ち返る「古学(こがく)」**を提唱しました。 朱子学が抽象的で体系化された理論に偏るのに対し、素行はもっと実生活に根ざした倫理と実践の学問を目指しました。 この思想はのちに伊藤仁斎や荻生徂徠などにも影響し、「古義学派」や「実学思想」の系譜につながっていきます。 ◆ 2. 武士道の倫理化・思想化 山鹿素行は、**武士とは何か?どう生きるべきか?**という問いに対して、学問的に答えようとした初めての人物です。 その中心が『武教小学』という著作です。 武教小学の主張: 武士は単なる戦闘者ではなく、「道義の担い手」でなければならない 知識・教養・礼儀を学び、常に自己を律するべき 刀を持つ者こそ、最も高い倫理的自覚をもたねばならない この考えは後世において「武士道」の基盤となり、明治期の『武士道(新渡戸稲造)』などにも通じる源流とされています。 ◆ 3. 『中朝事実』と日本中心主義 山鹿素行は、1675年に著した『中朝事実(ちゅうちょうじじつ)』で、日本こそが「中華」であるという思想を展開します。 この書では以下のような主張がなされています: 中国(清)は夷狄(いてき=野蛮)であり、正統な儒の文明はもはや存在しない 日本の天皇こそ、古の聖王の系統を継ぐ中華文明の中心である 日本は「礼」を保ち続けているゆえに、真の文明国は日本である このような日本中心思想は、のちの国学や尊皇思想にも影響を与える重要な立場であり、特に幕末に再評価されました。 【処罰と流罪】 『中朝事実』の内容は、当時の幕府にとって体制批判的・反中国的ともとられかねない過激な思想であったため、幕府の怒りを買い、素行は赤穂に流罪となります。 しかし、赤穂での生活は静かで平穏であり、彼はその地で門弟たちに学問を教え、数々の著作を残しました。 ※赤穂浪士で有名な浅野内匠頭の家系と山鹿素行は深い関係にあり、家臣であった大高源吾などが彼の門人であったとも伝わります。 【門弟・影響】 素行の思想は、直接的にも間接的にも幕末の思想家や維新志士たちに大きな影響を与えました。 吉田松陰は山鹿流兵学を学び、思想の根本とした 佐藤一斎や西郷隆盛らも、素行の影響を受けた人物とされています 山鹿流兵学は全国に広まり、多くの藩士に教えられました 【代表著作】 『武教小学』:武士の倫理・道徳の規範を示す書 『中朝事実』:日本中心の儒学的世界観を展開 『配所残筆』『山鹿語類』:赤穂での記録や講義録など 【まとめ】 江戸前期の儒学者・兵学者・思想家 「武士道の祖」とされる倫理思想の構築者 朱子学を否定し、孔孟の原典に立ち返る古学派の先駆け 『中朝事実』で日本中心思想を展開し、幕末の尊皇思想にも影響 赤穂に流罪となるも、教育と著述に尽力し、日本思想史に残る足跡を刻んだ |