江川坦庵えがわたんあん

時代 江戸時代
カテゴリー 掛け軸,絵画、書画
作品種別 墨蹟・書
プロフィール 江川 英龍(えがわ ひでたつ)は、江戸時代後期の幕臣で伊豆韮山代官。通称の太郎左衛門(たろうざえもん)、号の坦庵(たんあん)の呼び名で知られている。韮山では坦庵と書いて「たんなん」と読むことが多い。
洋学とりわけ近代的な沿岸防備の手法に強い関心を抱き、反射炉を築き、日本に西洋砲術を普及させた。地方一代官であったが海防の建言を行い、勘定吟味役まで異例の昇進を重ね、幕閣入を果たし、勘定奉行任命を目前に病死した。

江川坦庵(えがわ たんなん、1801年〜1855年)は、江戸時代後期の武士であり、西洋砲術の導入や製鉄技術の開発を進めた技術官僚・兵学者・蘭学者です。幕末における近代化の先駆者の一人であり、特に「江川英龍(えがわ ひでたつ)」の名でも知られています。

【基本情報】

本名:江川 英龍(えがわ ひでたつ)
通称・号:坦庵(たんなん)
生年:1801年(享和元年)
没年:1855年(安政2年)
出身地:伊豆国(現在の静岡県伊豆の国市)
家柄:代々、幕府の「伊豆代官」を務める名家・江川家の第36代当主
【人物像と背景】

江川坦庵は、代官として民政を司る一方で、兵学・砲術・西洋科学・農政・教育などに広く通じた開明的な人物でした。
蘭学を通じてオランダの近代兵器や技術に触れ、日本の自衛・独立に必要な「科学技術力」をいち早く理解した先見の明を持っていました。

【主な功績】

◆ 1. 西洋砲術(洋式砲術)の導入と指導
江川坦庵は、西洋砲術(特にオランダ流)を日本に導入した中心人物のひとりです。
それまでの日本の砲術は和式(古来の火縄銃・大筒)中心でしたが、射程・命中率・発射速度などの性能で劣ることを憂慮し、洋式を取り入れました。

彼は自邸に私設の訓練場を作り、若者に砲術を教え、その中から高島秋帆(たかしま しゅうはん)や勝海舟のような人材も育ちました。

◆ 2. 日本初の洋式反射炉(韮山反射炉)の建設
江川の代表的な業績が、静岡県韮山(にらやま)に建設された「韮山反射炉」です。

反射炉とは:高温の炉で鉄を溶かし、鋳造する施設。近代大砲の製造に不可欠。
江川は幕府に働きかけ、1857年、死後にはなったが日本初の実用反射炉の完成に繋がった。
この韮山反射炉は、現存する貴重な産業遺産であり、2015年に世界文化遺産にも登録されました(「明治日本の産業革命遺産」の一部)。

◆ 3. 食品改革と「パン」の導入
江川坦庵は、軍用食としての保存食にも関心を持ち、日本で最初にパンを焼いた人物とされています(諸説あり)。
当時の兵糧(干し飯など)は長期保存が難しく、江川は小麦粉を使ったパンに注目し、試作に成功しました。

これにより、幕末の軍隊に携帯可能な栄養食の先駆けが生まれたともいえます。

◆ 4. 教育者・育成者としての功績
坦庵は、伊豆・駿河・相模を中心に地域の青少年教育にも尽力しました。自邸に私塾を開いて蘭学・兵学・数学などを指導し、実学主義的な教育観を持っていたことで知られます。

彼の学問と人格に惹かれ、多くの若者が門を叩きました。

【評価と影響】

江川坦庵は、幕府内部の保守派からは異端視される一方、若き志士たちからは尊敬される近代思想家でもありました。
勝海舟、佐久間象山、高島秋帆ら幕末の啓蒙家たちと深く関わり、「日本の技術による独立自衛」という視点を先んじて体現していました。

【まとめ】

代官でありながら、西洋砲術や製鉄技術を日本に導入した先駆者
日本初の実用反射炉(韮山反射炉)を推進
軍事・技術・教育・食糧改革と、多方面に才能を発揮
幕末の開国・近代化に向けての「静かな実務者」
幕末の若手思想家たちに思想的・技術的遺産を残した