平賀元義ひらがもとよし

時代 江戸時代
カテゴリー 掛け軸,絵画、書画
作品種別 墨蹟・書
プロフィール 平賀 元義(ひらが もとよし、寛政12年7月3日(1800年8月22日) - 慶応元年12月28日(1866年2月13日))は、幕末期岡山の国学者、歌人、書家。
独学により国学を修め、中国地方の地理歴史、神社史研究に打ち込んだが、本人は余技とした万葉調の和歌により名を知られる。また、その独特の筆跡で能書家としても愛好されている。元の姓は平尾、幼名は猪之介、後に七蔵とした。喜左衛門、丹介とも称す。名は直元、長元、義元とも言う。また、祖母の姓を借り、興津(沖津)姓を名乗ったこともあった。号は源猫彦(ねこのひこ)、吉備雄、備前処士等。友人に同じく国学者、歌人の萩原広道がいる。

平賀元義(ひらが もとよし、1800年〜1866年)は、江戸時代後期の国学者・歌人・考証家で、近世国学の流れをくむ正統的な学者です。本居宣長の後継的立場にありながら、独自の視点で古典の精密な考証と国学の実践的展開を試みた人物で、幕末の思想界において静かだが確実な影響力を持ちました。

【基本情報】

名前:平賀 元義(ひらが もとよし)
別号:秋之坊、真土屋、白髪山人など
生年:1800年(寛政12年)
没年:1866年(慶応2年)
出身地:出雲国松江藩(現在の島根県松江市)
職業:国学者、歌人、古典注釈家
【人物像と学問的立場】

平賀元義は、本居宣長を精神的師と仰ぎ、古事記・万葉集・日本書紀などの国文学・神道文献の研究に没頭した学者です。
特に、「古典の読み解きには文献批判と原義の解明が必要」という姿勢を徹底し、形式だけの尊王思想や神道解釈には与しませんでした。

特徴的な姿勢:
感情よりも実証的で考証的な態度を重視(宣長的伝統の継承)
詠歌活動を通じて、日常に根差した「やまと心」の体現を試みる
「正しく知ること=正しく敬うこと」という知識と敬神の一体化を説く
【主な業績】

◆ 『万葉集』の注釈と校訂
万葉集研究に生涯をかけ、多くの異本を照合し、歌の語義や文法の考証を行いました。
特に当時の漢字訓読法や仮名遣いの変遷に敏感で、歌の本来の意味を現代語に近い形で明らかにしようとしました。

◆ 『古事記』『日本書紀』の研究
神代からの国史を実証的に読み解く試みを行い、儒仏の思想を交えずに、古代日本の精神や言語、文化を再構築しようとしました。

【歌人としての側面】

元義はまた優れた和歌の詠み手でもあり、生活の中で自然や人情を詠み込んだ素朴でまっすぐな歌が多く残っています。
彼は和歌を「心のままに詠むもの」とし、技巧や格式よりも真率な感情と日本語の響きを大切にしました。

代表的な歌例(意訳):

もの思へば 心の底に 沈みけり
清き言葉の うれしかるらむ
このように、**言葉の「清さ」**そのものを喜びとする詩風は、近代短歌の自然主義にも通じる先取り的な感性を含んでいます。

【交流と影響】

元義は地方在住で公的な場には出なかったものの、同時代の国学者や文人たちとの交流は深く、またその著作は後進に読み継がれました。
同時代には、賀茂真淵や本居大平らの思想と重なる部分もあり、幕末の尊皇思想とは一線を画す、静かなる精神的支柱のような存在でした。

【晩年と死】

晩年も松江の自宅で学問と歌に静かに没頭し、激動の幕末期にあっても政治的な言動は控え、学問の独立と倫理的節度を保ちました。
1866年に67歳で没し、死後は国学の良心として多くの学徒に敬慕されました。

【まとめ】

本居宣長の学統を継ぐ実証主義の国学者
『万葉集』『古事記』『日本書紀』の注釈を通して日本古典の再評価を推進
和歌を通じて「やまと心」を日常に実践
華々しさはないが、深い学識と静かな人格で後世に影響を残す