頼三樹三郎らいみきさぶろう

時代 江戸時代
カテゴリー 掛け軸,絵画、書画
作品種別 墨蹟・書
プロフィール 頼 三樹三郎(1825年7月11日(文政8年5月26日)- 1859年11月1日(安政6年10月7日))は、江戸時代末期(幕末)の儒学者。名は醇。通称は三木八。号は鴨崖。頼山陽の三男。

頼三樹三郎は、幕末の尊皇攘夷運動に深く関わった儒学者・思想家で、吉田松陰や梅田雲浜と並ぶ急進的な志士の先駆けの一人として知られています。儒教的正義感に基づく強烈な反幕・攘夷思想を掲げ、結果として幕府に処刑された人物でもあります。

【基本情報】

名前:頼 三樹三郎
通称:頼三樹、頼三樹三郎
本名:頼 惟柔
生年:1825年(文政8年)
没年:1859年(安政6年)※享年35歳
出身地:京都
家系:頼山陽の三男(つまり、頼春水の孫)
【家系と学問的背景】

頼三樹三郎は、日本近世の有名な漢学者・歴史家である**頼山陽(らい さんよう)**の三男として生まれました。頼家は、代々広島藩に仕える漢学の名門であり、祖父・父ともに儒学者として名高く、三樹三郎もその流れを受け継いでいます。

彼は父・山陽の影響のもと、早くから儒学、特に陽明学に親しみ、「知行合一」「道義実践」などの思想を強く心に刻んでいきました。

【思想と行動:尊皇攘夷・討幕への傾倒】

頼三樹三郎は、幕末の動乱期において、極めて急進的な思想を持つ尊皇攘夷論者として知られています。

特徴的な思想:
尊皇:天皇を中心とする国体思想の徹底的な擁護
攘夷:外国勢力との通商や条約を真っ向から否定
反幕:幕府の開国政策や腐敗に対する強い批判
特に、1858年の日米修好通商条約(安政の五カ国条約)締結にあたっての幕府の専断に強く反発し、これを「国賊的行為」とみなして、行動に出ます。

【梅田雲浜との関係】

頼三樹三郎は、同じく尊攘思想で知られる**梅田雲浜(うめだ うんぴん)**と親交を持ちました。両者ともに、幕府の条約締結に反対し、密かに倒幕の気運を広げる活動を行っていました。

彼らの運動は「安政の大獄」の発端ともなるほど、幕府にとっては深刻な脅威となりました。

【安政の大獄と最期】

1859年、井伊直弼による安政の大獄が始まると、頼三樹三郎はその急先鋒として逮捕され、江戸送りとなります。

当初は幽閉されていましたが、取り調べの過程で彼が関与していた倒幕思想・情報流通の規模が明らかとなり、**斬罪(打ち首)**の判決が下されました。享年35。

彼は刑死の前日まで詩を詠み、儒者らしい気骨を貫いた最期だったと伝えられます。

【人物像と評価】

頼三樹三郎は、幕末の急進派の象徴的存在とされており、吉田松陰や橋本左内に先んじる形で処刑されたことから、後世の尊攘志士たちにとって「先駆的な犠牲者」として尊敬されました。

評価のポイント:
陽明学的正義の体現者として、自己の信念を貫いた。
実際の政治的成果は残せなかったが、その思想と行動が後進に火をつけた。
若くして刑死したことで、彼の純粋さ・悲劇性が強調され、精神的指導者のような扱いを受けた。
【代表的な言葉】

「知は行の始めにして、行は知の成るなり」
これは陽明学の核心でもある「知行合一」の精神であり、三樹三郎の生き様を最もよく表す思想といえます。

【まとめ】

頼山陽の三男として生まれたエリート儒学者
幕末の尊皇攘夷運動の先鋒を担い、急進的な反幕行動を展開
安政の大獄で捕らえられ、35歳で斬罪に処される
その思想と死は、吉田松陰ら後の志士に大きな影響を与えた