高山彦九郎たかやまひこくろう
時代 | 江戸時代 |
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カテゴリー | 掛け軸,絵画、書画 |
作品種別 | 墨蹟・書 |
プロフィール | 高山 彦九郎(たかやま ひこくろう、延享4年5月8日(1747年6月15日) - 寛政5年6月28日(1793年8月4日))は、江戸時代後期の尊皇思想家である。父は高山良左衛門正教、母はしげ。兄は高山正晴。妻はしも後にさき。子に高山義介ほか娘など。林子平・蒲生君平と共に、「寛政の三奇人」の1人(「奇」は「優れた」という意味)。名は正之。 高山彦九郎(たかやま ひこくろう、1747年~1793年)は、江戸時代中期の尊王思想家・儒者・旅人であり、幕末の尊王攘夷思想に先駆けて“天皇への忠誠”を掲げた先覚者です。江戸時代の「天皇=京都の象徴」だった時代にあって、朝廷を中心とする政治体制を強く理想とした人物として、後の維新思想の源流に位置づけられています。 ■ 基本情報 名前:高山 彦九郎(たかやま ひこくろう) 本名:高山 正之(まさゆき) 通称:彦九郎 号:稽山、南山 生年没年:1747年(延享4年)~1793年(寛政5年) 出身地:上野国新田郡芝村(現在の群馬県太田市) 身分:郷士(農兵兼業)、のち浪人 代表的な称号:「寛政の三奇人」の一人(他:林子平・蒲生君平) ■ 生涯と主な行動 ◉ 幼少から学問に励む 父は村役人。若い頃から儒学・神道・歴史・古典に強い関心を持つ。 とくに『日本書紀』『古事記』『神皇正統記』などの皇統史や神道思想に傾倒。 ◉ 尊王思想の確立 朝廷を正統とし、徳川幕府の支配を「本来あるべき形ではない」と考える。 「尊皇斥覇(そんのうせきは)」(天皇を敬い、武家政権に反対する)という思想の元祖的存在。 江戸時代に天皇を「政治の中心」と考えることは異端的な思想であり、彼はその点で先駆的でした。 ◉ 全国を旅して尊皇を説く 「諸国巡礼の旅」を数回にわたり行い、神社・旧跡・学者・志士を訪ね歩く。 京都御所前にて、「御所に向かって土下座をする」姿が象徴的に語り継がれています。 旅の道中で各地の志士・儒者と交流し、尊皇思想の種を撒いていった。 ■ 主な思想と行動の特徴 ① ■ 朝廷中心の国家観 日本は神国であり、天皇を中心とした政治体制が本来の姿。 幕府政権(武家政権)は、あくまで「代行」であり、皇政復古を理想視。 ② ■ 草の根的な思想普及 身分の高い役職や地位には就かず、旅を通じて学問と尊皇の精神を広めた。 直接政治を動かすことはなかったが、のちの松陰・久坂玄瑞・西郷らに思想的影響を与える。 ③ ■ 激しい理想主義と自己犠牲 政治改革や現実主義ではなく、**信念のために自らを犠牲にする“烈士”的精神”**を体現。 最晩年、精神的に疲弊し、京都で自刃(自決)。享年47。 ■ 晩年と死 旅の途上で志が果たせず、社会の無理解や政治の現実に苦悩。 1793年、京都の木屋町にて短刀で自らの命を絶つ。 遺言には「天皇を敬わぬこの世には未練なし」と記されたとされる。 ■ 顕彰と後世への影響 明治以降、尊皇の先駆者として再評価され、「維新思想の源流」として祀られる。 京都の**木屋町通にある「高山彦九郎像(土下座像)」**は有名な歴史的シンボル。 西郷隆盛や吉田松陰ら、幕末の志士たちは彼の生き様に深く共感した。 ■ 「寛政の三奇人」とは? 人物 特徴 林子平 海防論の先駆者。『海国兵談』でロシアの脅威を警告。 蒲生君平 天皇陵調査を行い、『山陵志』で尊王の歴史を可視化。 高山彦九郎 尊王思想を信じ、全国を巡って忠義を訴えた烈士。 ■ まとめ:高山彦九郎の意義 項目 内容 立場 民間の尊皇思想家・旅する儒者 思想 皇政復古・尊皇斥覇 行動 全国巡礼、御所前土下座、志士との交わり 評価 幕末の尊皇攘夷思想の先駆け、「精神の開祖」的存在 影響 明治維新思想の形成、明治政府による顕彰 |